山川大蔵が山本家を訪ねていたことは史実らしいけどね。大蔵が鉄砲に興味あり、覚馬に鉄砲の撃ち方を教わってたから。
山本家に来ても八重とは話さないってことあるのかな?
Jun 20, 2012
山川浩
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http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/66-2.html
>八月二十二日、城下の形勢が悪化、西軍東部に迫るの報に接
し、藩主の命により急きょ呼び戻され日光口田島方面より退陣したが、浩が急いで
引揚げてみると城はすでに西軍の重囲下にあり、城内に入ることはできなかった。
そこで浩は一計を案じ、小松集落の獅子団に頼んでこれを先頭に立て、"通り囃子
(はやし)"を奏させながら西軍のあっけにとられているなかを堂々と行進し、一
兵も損ずることなく入城を果たした。
籠城中の将士たちは、浩のこの入城によって士気を盛り返し、藩主容保もまた大
変喜び浩の機智をおおいに賞賛したという。
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
西軍は其処まで馬鹿ではないので、山川浩が創作した話だそうです。
山川浩は、こっそりと深夜に部隊を率いて入城したそうです。
>会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。
山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久。幼名を義衛と称し、諱を良晴といった。<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8B%98%E5%8A%A9
>山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼斎を称しているが、
文書上からは確認されていない。近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられ武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっている。
「山本勘助」は『軍鑑』やその影響下にある近世の編纂物に登場する人物像で確実な文書からは一切存在が確認されていなかったためその実在については疑問視されていたが、
近年は「山本勘助」に比定される可能性のある「山本菅助」の存在が複数の文書上から確認されている[1]。<
>以下に記述する勘助の生涯は江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、
山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。
勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。
各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、
武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である(実在を巡る議論参照)。<
松平家はペテン師を召抱えてしまい、
明治に成っても、山本家の嘘を見破れなかったのです。
>山川大蔵が山本家を訪ねていたことは史実らしいけどね。大蔵が鉄砲に興味あり、覚馬に鉄砲の撃ち方を教わってたから。
山川大蔵が山本覚馬に入門しない限りは、
山川大蔵に山本家の人々は、口を聞く事も許されなかったでしょう。
雨に強い・着剣が出来る・火縄を使わないので夜間、敵に見付かりにくい
命中率を犠牲にしてまで、火縄銃からゲベール銃に切り替える程のメリットは無い筈です。
火縄銃からエンフィールド銃に切り替えて、
尚且つ、エンフィールド銃を元込めに改造するべきでした。