>ちなみに「天保古道」のどこかの松の木の根には長岡藩の埋蔵金が眠っているそうで、一説には3千両、今の価値で3億円とも言われ、昔からトレジャーハンターが多く八十里越に入っているという話も聞きましたが、これも初めて知りました。
白痴丸 博子 チャン(大和田爆笑) 郷土史の与太話ですね。
三百名の長岡兵に一人当たり十両を運搬させれば、會津若松まで辿り着けます。
>当時、戦火に包まれた長岡城城下町では、河井継之助による御触れが出され「3歳以下の子どもは捨ててはならぬ」とされました。
「御山(悠久山)に避難しろ」と御触れが出されただけですよ。
御山(悠久山)に避難するだけですから、乳飲み子を背負って避難するだけです。
>戦ごとで敗走するにあたり、子どもは足手まといになるので、戦下の不文律として「捨てる」というのが横行していた時代です。
>しかし、継之助は長岡の未来のために「捨てるな」としました。とはいえ八十里越はとても赤子を背負って越えられる峠ではなく、途中でやむなく(どこの峠かは言いませんでしたが)、乳飲み子を投げ捨てるということが多発したそうです。
御山(悠久山)から、橡尾や加茂に侍と足軽の家族が避難するでしょう。
下男や女中の実家が信用できれば、金を払って匿って貰えたかも知れませんが。
>その貞が一番つらい思いを語っている。それは戦時中、潜伏先の濁沢村阿弥陀寺で襲われて捕えられたことだった。住職の神田月泉の配慮も空しく、高田に護送されて半年間の禁固に会った。「唐丸籠に乗せられた思いは生涯忘れません」と語っている。妻のすがはその際、髪をおろしている。
河井 繼之助の家族が戦時中に捕らえられたのに、
下っ端の侍と足軽の家族が長岡城二番破れの後まで捕らえられずに、何で八十里越まで逃げ切れたのでしょうか?
卑劣で卑怯で狡猾な家族だからこそ、八十里越まで逃げ切れたのでしょう。
>この行き場のない悲しみは「八十里越に行かざるを得なかったのは河井継之助のせいだ。なぜ、八十里越なんかに行かせたのか」となり、また、新政府軍の肩入れをしたものは厳しく処罰するとして、長岡藩への背任行為をした三条の人を(それも妊婦だったとか)を何人も処刑したという話もあって、越後人にとっては(特に長岡と三条は)赤子が捨てられた八十里越も、妊婦を処刑した河井継之助も良いイメージは何一つないという話でした。
長岡軍は三条を占領や占拠しましたっけ?(大和田爆笑)
>河井継之助一行は1868(慶応4)年8月3日、八十里越の入口、吉ケ平村(現三条市吉ヶ平)に入り、肝煎椿庄之丞屋敷に宿泊。「会津ヘ行ったとて何のよいことがあるものか、己は行かない、置いていけ」と言って会津行きを承知しなかった継之助
左膝下を被弾して重傷を負った河井 繼之助に、長岡軍に命令する権限は無かった。