会津などが戦場になった戊辰戦争から来年で150年になるのを前に県内でも歴史を見直す動きが広がっている。須賀川市の歴史研究家松宮輝明さん(77)は所蔵する、戊辰戦争の局地戦の一つ「北越戦争」の際に使われた大砲の砲弾を新潟県長岡市の河井継之助記念館に寄託することを決めた。松宮さんは「戊辰戦争の節目に歴史を振り返るきっかけとしてもらえれば」と話している。
松宮さんは会津藩や長岡藩とつながりがあったとされる松宮家の子孫。松宮さんによると、松宮家は北越戦争当時、越後・観音寺村(現在の新潟県弥彦村)に屋敷を構え、長岡藩と連携し、会津に向かって進攻する新政府軍を迎え撃つ役割を担ったという。
同記念館に寄託するのは、松宮家が攻勢の新政府軍に押され、焼き払われた屋敷から見つかったとされる重さ約4.3キロの金属製の砲弾で、代々保管してきたものという。太平洋戦争の際にも松宮さんの祖母が国の金属供出に提供せず守り通したという。
松宮家には砲弾に加え、会津藩主松平容保から贈られた、江戸時代の刀工会津兼定の造った刀も残っている。兼定は容保が新選組の土方歳三に贈った刀も造った名工とされる。刀の銘には刀工の名前のほか、当時の松宮家の当主・松宮直秀の名前も刻まれ、会津藩との関わりを示しているという。
松宮さんは「守り続けてきた砲弾や刀は松宮家が戊辰戦争で長岡藩や会津藩とつながっていた証し。砲弾が展示されて脚光を浴び、多くの皆さんに見てもらうことで、賊軍の汚名を着せられたまま死んでいった先祖も喜んでくれるのでは」と展示開始を心待ちにしている。
>同記念館に寄託するのは、松宮家が攻勢の新政府軍に押され、焼き払われた屋敷から見つかったとされる重さ約4.3キロの金属製の砲弾で、
旧式の丸い砲弾の不発弾ですね。
後の時代に信管と火薬を抜き取った物ですね。
これは新政府軍では無いですね。
寧ろ旧式装備の會津軍の砲弾ですね。
当時の全世界で最新最高の兵器で武装して居た長岡軍を相手に戦うには、
最低でも四斤山砲で武装して居なくては無理なのです。
長州軍はマッチを使って、放火して居ました。
152名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/24(月) 22:15:09.05ID:gAzHLBYF0
長州こわ~い
>山田仙三という長州兵は二本松に入ると菓子屋の略奪に熱中する。
散々菓子を食ったあと大きな羊羹の箱を持ち帰ったら俺にもくれと隊友がせがみ菓子売のようになった。
その後で母成峠に入ったが、食糧が来ないので百姓家から唐茄子や米を奪って飯を食った。
峠を越した後はやっぱり放火する。
白井良三郎は干城隊で越後に出征したが、村松城下が燃え上がるのを目撃。
「敵が退いたからと言ってあんなに焼く理屈はない」と思って聞いたところ、
今度は米沢藩の放火だった。村松藩は米沢藩から脅されたが中々従わなかったので放火されたらしい。
佐藤保介も干城隊で、越後・会津の国境まで進軍して庄屋宅に宿泊するが、
池にコイを見つけるとさあ獲れと言って15,6匹も獲った。煮ようとしたが味噌も何もない。
百姓は食糧を持って逃げてしまったので分捕りもできず、まずいコイの味に失望して捨てた。
本田友一も越後に出征。第一次長岡攻防戦で強引な渡河を行ったが、
小者に「うまくやったら武士に取り立ててやる」とマッチ箱を渡して渡河させた
小者はやっぱり放火をして回るがやりすぎて捕まった。
本田によると会津、長岡、庄内の三藩の兵が最も強かったらしい。
河村楳治は長州第4大隊第1中隊で、杉山素輔と戦歴が重なる。
上野戦争の翌日に大小を指した立派な武士が通りかかったが、
自分は幕府方ではないというのを無視してその場で殺した。
小島荒一は越後方面に出征。
長岡城攻防戦のときに暗いと言って百姓家を何軒も放火して回る。
長岡が落ちたあと避難する行列に大砲をぶっ放してやった。
6月1日の見附杉の森の戦いで村松藩兵3人を捕虜にしたが面倒だから斬った。
戦争が終わったあと村松藩兵2人が迷子になってたのを捕まえてまた斬った。
初めて戦争に出た人らしく、降参するから助けてくれと言われたが面倒くさかった。
(杉山素輔の部隊も、彼の部隊も捕虜がかなりいたようだが全員殺している)
戦況が不利になり見附を放棄するが地元民には先へ進むと騙して撤退した。