周回遅れの読書報告(その37) 河井継之助はなぜ批判され、評価されるのか
- 2017年 12月 9日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
山田風太郎が書いた「地の果ての獄」という小説がある。『山田風太郎明治小説全集③』(1997年、筑摩書房)に収められているが、もともとは『オール読物』(文藝春秋社)の1976年6月~1977年8月の各号に連載されたものである。その終わり近くに、河井継之助のことが出てくる(全集③の326頁)。河井は戊辰戦争時に越後長岡藩の家老だった。山田は登場人物の言葉として、河井に対して「戊辰の変の十傑に数えられる」とする高い評価を与えている。
一方、長岡市の「米百俵小林虎三郎の思想編集委員会」なる組織が、1975年に『米百俵 小林虎三郎の思想』という本を作っている。この本は山本有三の「米百俵」の舞台となった長岡市が、この話を知ってもらおうとして広く市民に紹介しようとして作ったものらしい。刊行からずいぶん経ってから同市在住の人物からこの本を贈られた記憶がある。この本には、河井の論敵であった小林が明治2年に書いた「戊辰刀隊戦没諸氏碣銘」の全文が掲げられ、その冒頭には次のように書いてある。
一方、長岡市の「米百俵小林虎三郎の思想編集委員会」なる組織が、1975年に『米百俵 小林虎三郎の思想』という本を作っている。この本は山本有三の「米百俵」の舞台となった長岡市が、この話を知ってもらおうとして広く市民に紹介しようとして作ったものらしい。刊行からずいぶん経ってから同市在住の人物からこの本を贈られた記憶がある。この本には、河井の論敵であった小林が明治2年に書いた「戊辰刀隊戦没諸氏碣銘」の全文が掲げられ、その冒頭には次のように書いてある。
「戊辰の変、我が藩の権臣迷錯して、妄りに私意を張り、遂に敢えて王師に抗じ、城邑陥没し、社稷墟と為るに至る」
この「迷錯して、妄りに私意を張り、遂に敢えて王師に抗じ」た「我が藩の権臣」とは河井のことに他ならない。小林が宿敵河井を罵倒した碑文を書いたことは事実としても、それを何の注釈もつけることなく堂々と掲げるということは、この当時の長岡における小林に対する高い評価とその反射としての河井に対する蔑みが行間から滲む。少なくとも、河井が敢えて王師(天皇の軍隊)に抵抗したことの意味を「米百俵小林虎三郎の思想編集委員会」が積極的に評価しているとは思えない。長岡とは何のゆかりもない山田が河井を高く評価しているのと対比すると、実に奇妙な印象が残る。
もう一人、長岡とは縁もゆかりもない(はずの)人間が河井を好意的に評価している。政治学者・蝋山政道である。蝋山は、1939年2月に43歳という若さで東大を去ったがこれは抗議の辞任であったという。西尾勝が、そのときの様子を、同年2月18日の『朝日新聞』を引く形で、紹介している(西尾『行政学』54頁)。蝋山は、河井継之助の句と伝えられる「別れても又一路や花の山」を学生に伝えて、教壇を去ったという。
小林虎三郎が河井を批判した理由は、河井が勝ち目のない戦争をして、結果的に故郷を壊滅させたということにある。それに「錦の御旗」を掲げた天皇の軍隊と争ったという事情が加わる。これを理由に河井を批判するのは、私にはまったく理解できない。負けるとわかっていても、馬鹿を承知の上で、やらなければならない争いもあれば、「錦の御旗」を振りかざす一派に理がなければ、「錦の御旗」に挑むことになる「義戦」もあるだろう。蝋山の心情はそれに近かったように思う。蝋山は、「錦の御旗」に逆らっても「義」を貫いた河井の心情に自らの思いを重ねたのかもしれない。「義」とするところはそれぞれ違っていても、である。ただ、こういう考えが広く受け入れらるわけでは決してない。だからこそ、「錦の御旗」に逆らったり、勝ち目のない戦いなどはやってはならないとする河井批判が支持されるのであり、河井が悪党呼ばわりされるのである。
河井が「遂に敢えて王師に抗じ」た戦いから150年が経つ。この機会に、勝ち目のない戦いをすることについて考えてみるのもいいのではないか。
もう一人、長岡とは縁もゆかりもない(はずの)人間が河井を好意的に評価している。政治学者・蝋山政道である。蝋山は、1939年2月に43歳という若さで東大を去ったがこれは抗議の辞任であったという。西尾勝が、そのときの様子を、同年2月18日の『朝日新聞』を引く形で、紹介している(西尾『行政学』54頁)。蝋山は、河井継之助の句と伝えられる「別れても又一路や花の山」を学生に伝えて、教壇を去ったという。
小林虎三郎が河井を批判した理由は、河井が勝ち目のない戦争をして、結果的に故郷を壊滅させたということにある。それに「錦の御旗」を掲げた天皇の軍隊と争ったという事情が加わる。これを理由に河井を批判するのは、私にはまったく理解できない。負けるとわかっていても、馬鹿を承知の上で、やらなければならない争いもあれば、「錦の御旗」を振りかざす一派に理がなければ、「錦の御旗」に挑むことになる「義戦」もあるだろう。蝋山の心情はそれに近かったように思う。蝋山は、「錦の御旗」に逆らっても「義」を貫いた河井の心情に自らの思いを重ねたのかもしれない。「義」とするところはそれぞれ違っていても、である。ただ、こういう考えが広く受け入れらるわけでは決してない。だからこそ、「錦の御旗」に逆らったり、勝ち目のない戦いなどはやってはならないとする河井批判が支持されるのであり、河井が悪党呼ばわりされるのである。
河井が「遂に敢えて王師に抗じ」た戦いから150年が経つ。この機会に、勝ち目のない戦いをすることについて考えてみるのもいいのではないか。
山本有三『米百俵 小林虎三郎の思想』(「米百俵小林虎三郎の思想編集委員会」、1975年)西尾勝『行政学』(有斐閣、1993年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7171:171209〕
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7171:171209〕
小林虎三郎は白痴で嘘吐きだ。
河井 繼之助が開戦時に言った「彼らは王師に非ず」は正かった。
河井 繼之助は慶應四年八月十六日に戰没
明治天皇は慶應四年八月二十七日に即位
河井 繼之助が戰った敵軍の薩長土肥は偽官軍だったのです。