Quantcast
Channel: アセンション詐欺に遭いましたか?
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2774

(閏4月15日、波多野家文書、3分の1減免布告。同17日にも年貢大幅減の記事あり

$
0
0

337日本@名無史さん2017/11/12(日) 20:48:41.64
>>1が転載するブログの「水原町編年史」第1巻の内容をチェックした。
結論的にはやっぱり誇張。

【軍資金の取り方は旧幕、諸藩、官軍みんな同じ】

「編年史」第11章が「幕末の激動と献金」という章題をつけている通り、
越後の各陣屋では文久・慶応にかけて農村統制とともに「軍資金」として
献金要請が相次ぎ、同時に年貢の減免が検討される(天領時代から)。
また農村側も経費のやりくりに困り代官所から金を借りる。
たとえば慶応元年の長州征討の際には多額の献金がなされ、兵賦の差出も
命じられている。慶応2年には水原御役所で争議が起こっている。

慶応4年4月に水原代官所にやってきた会津藩も、年貢を減免するかわり、
軍資金と兵賦の差出に協力するよう要請する方式で、天領時代と変わりがない。
献金額がとくに増えた様子もなく、むしろ大幅な年貢減免を行っている
(閏4月15日、波多野家文書、3分の1減免布告。同17日にも年貢大幅減の記事あり
=水原博物館蔵書)。

会津藩の年貢減免の理由は「所々出兵に伴い、領内百姓に難儀をかけたということで、
会津旧領に当年度年貢を3分の1免ずることとした。当預かり所も同じ理由によって、
減免も同じに取り扱う」という理由だから、水原は棚からボタ餅ということになる。

7月~8月にかけて会津藩を駆逐した官軍がさっそく命じたのも軍資金と人夫で、
やってることは旧幕、会津藩と全く同じ。むしろ旧幕、会津藩時代には見えなかった
破産者の名前が見える(献金を搾りとられて破産した)。越後では明治2年に一揆が勃発し、
長官が次々に代わり治安状況も極度に悪かった。

軍資金の入用は越後に入った同盟軍すべてが適宜要請したので、
同書でも長岡藩(3箇所合計4万2000両、4月26日)、米沢藩、山形藩などが挙げられている。
慶応4年の状況はさほど長い記事というわけでもないので、みな似たようなことをしているのは
すぐに気づくはずである。転載元サイトが会津藩関係の記事だけ取り出しているのだろう。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2774

Trending Articles