$ 0 0 https://twitter.com/shirisagari/status/966081111745966082寿 @shirisagari河井継之助はどうしてアームストロング家老ではなくてガトリング家老と呼ばれるのっと14:44 - 2018年2月20日 小倉口について地名を整理しておけば,下関の対岸から北西に向かって,田野浦・門司・大里・赤坂・小倉と続いていく。長州軍は最初の奇襲攻撃で田野浦・門司を,二度目の攻撃で大里まで進軍を果たしていた。 1866年7月27日,四境戦争における最大の激闘が起こる。 三度目の渡海を冒した長州軍は再び大里に攻め懸かったが,前回の攻撃を受けてその守備力は低下していた。布陣していた小倉兵はあえなく敗退し,大里の地を明け渡す。 いや,これは小倉藩家老島村志津摩の策であった。小倉軍も戦闘を重ねるにつれ戦場の駆け引きを覚えつつあった。 長州軍は,小倉兵の逃げる方向に追尾する。そして,常の如く三手に分かれた。 福原和勝率いる報国隊は海岸沿いを,山県有朋率いる奇兵隊(一部)は標高50m程の山中を,時山直八率いる奇兵隊(一部)は迂回路を取って,それぞれ赤坂方面を目指すのである。 赤坂は小倉口最後の防衛線と言える。ここを破られたら小倉城は指呼(しこ)の間にある。 長州軍は,前二度の戦闘の如く,当然赤坂を踏み破れるだろうと高を括っていた。そこに虎の尾があって踏んでしまうなどとは予想だにしなかった。 これまでの小倉口は専ら小倉藩の軍隊のみで守っていたが,赤坂では違っていたのである。なんと肥後藩の軍隊が,赤坂口の延命寺と大谷口の弾正山という要衝を占め,待ち構えていたのであった。 54万石の肥後藩は,洋式の軍制改革を遂げている数少ない藩の一つである。銃隊は数こそやや少なかったが全兵ミニエー銃を装備し,8門引いていた大砲のうち4門がアームストロング砲である。 その肥後軍に,海岸路を取った報国隊がまず突貫攻撃した。 家老長岡監物が指揮する肥後方の大砲が火を噴き,散兵戦術による狙撃もあり,長州方の兵はバタバタと倒れて屍が戦場に晒された。 続いて山県有朋の奇兵隊が突撃を仕掛ける。この隊は,功山寺挙兵に始まる元治の内乱にて大田・絵堂の戦いで活躍した銃隊である。 だが,火力に勝る肥後軍の砲撃と銃撃の前に次々と負傷したり戦死したりしていく。 最後に時山直八の奇兵隊も突撃したが,同様に撃退された。 この3度の突撃で,長州軍の戦死者は50余名に上った。高杉晋作は,残しておいた予備戦力まで投入して断続的に攻撃を仕掛けさせた。 しかし肥後藩の堅陣を抜くことは出来ない。長州軍の陸戦兵力が800人程であるのに対し,肥後軍は5,000人で必死の守備を敷いている。 四境戦争始まって以来,この赤坂の戦いが長州藩の蒙った最初の本格的な敗北であった。戦死者114人を出すまでに至ったが,小倉口に宛(あて)がわれた兵力の実に1割以上の損失となる。 さしもの高杉も,大里まで軍を退かせた。 https://ameblo.jp/araigakuinhashimoto/entry-11502332821.html http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/bakutyouwar/kokura.htm