【維新を歩く】河井継之助 北越戦争で長岡城奪還 信念貫く武士道
慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争から150年の節目を迎えた今年は、NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の影響もあって、明治維新が脚光を浴びている。近代日本への大転換をもたらした維新ゆかりの舞台や人物の足跡は、甲信越や静岡の各県内にも数多く残る。記者が現地を訪ね歩き、歴史の一端をひもといた。
戊辰戦争の最大の激戦となった北越戦争で徹底抗戦の指揮を執り、新政府軍(西軍)を苦しめた長岡藩の軍事総督、河井継之助(1827~68年)。長岡城の奪還作戦を敢行し、城下を火の海にした張本人として批判的な声が今も残る一方、信念を曲げず意志を貫き通す生き方に憧れを抱く人も少なくない。
「継之助は今の時代に必要な人間」。こう力を込めるのは、平成18年1月に開館した河井継之助記念館(長岡市長町)の稲川明雄館長(73)だ。
継之助は幕末に長岡藩の藩政を家老として担い、兵制改革や農政改革のほか、風紀粛正にも積極的に取り組んだ。自らも通ったとされる遊郭の禁止令を発すると「かわいかわい(河井)と今朝まで思い今は愛想もつきのすけ(継之助)」という歌が詠まれたという。
好戦的な人物として評されがちだが、本来目指していたのは「武装中立」ともされる。諸藩が国内を二分して争う中、他力に頼らず己の力で生きることを訴えた。しかし、新政府軍の軍監、岩村精一郎との和平交渉「小千谷談判」は決裂し北越戦争へと突入した。
稲川館長は「民を救うと言ったにもかかわらず、自ら戦争をして長岡を焼いてしまった。批判されるのも仕方ない」としつつ、「和平の外交が駄目になれば戦争で白黒を決めるしかない。そういう時代背景を考えないと継之助の評価はできない」と指摘する。
継之助は、12代藩主の牧野忠訓や戊辰戦争後の長岡の復興に尽力した三島億二郎らとともに栄涼寺(同市東神田)に眠る。毎年10月に継之助の法要が開かれ、昨年の没後150年法要には約50人が駆けつけたという。河井家の子孫も10年ほど前から参列している。
住職の齊藤隆信さん(51)は「長岡では継之助を恨む人も多く、かつては墓が何度も倒されたり、ペンキを塗られたりもした」と明かす。だが50年ほど前から、そうした行為は全くなくなった。継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説「峠」がベストセラーとなった影響が大きい。
齊藤さんは「小説を読み、継之助を好意的に捉える人が増えたと思う。信念を貫き、徳川家に最後まで義理を尽くし、小さな藩の家老が薩長にたてついた。民を守れなかったのは事実だが、武士としての生き方は評価できる」と語る。
「亡くなった主人(河井家7代目の正安さん)は、どんなに聞いても継之助のことは一切話さなかった」
東京都三鷹市に住む正安さんの妻、河井恵美さん(83)はこう振り返る。先々代の茂樹さんから「長岡を灰にして恨みを買っている。間違っても長岡で河井と名乗るな」と厳しく言われていたという。長岡の法要に参列することもなかった。
戦力で勝る新政府軍に服従せず、信念を曲げなかった継之助を再評価する動きは近年高まっている。
8代当主の弘安さん(56)は「今の日本人は欧米化して『自分が正しければそれが一番』という考えになってきている。だからこそ、正しいと思うことを貫いた継之助が評価されるようになったのだろう。自分の考えを曲げない強さはうらやましい」と笑顔をみせた。一方で「現在の価値観で評価しても本質がずれる。事実として淡々と継之助を記憶に留めてもらえれば、それでいい」とする。
記念館の稲川館長はこう強調した。「継之助は女性にだらしなく、切腹一歩手前のこともいっぱいやっている。だが、自分の限界を決めず志をもつ姿勢は現代人に欠けた部分。悪い面だけでなく、両面から継之助を考えてほしい」(松崎翼)
>城下を火の海にした張本人として批判的な声が今も残る
隅櫓の御三階を炎上、爆破させただけです。
城下を火の海にした張本人、実行犯は西軍です。
仮に所謂『官軍』に付いたところで、會津、荘内、桑名、米澤に長岡城下を火の海にされます。
>「民を救う」
「民を救う」は陽明学に傾倒した頃の話で、幕末も終わりの頃には、「民は吏よりも、豪い」と言った。
『民者國之本 吏者民之雇』 (たみ はくにのもと りはたみのやとい) 民が国のもとで、役人は民の雇われ人である
長岡領で一番に豪い民が、今井 孫兵衛
>住職の齊藤隆信さん(51)は「長岡では継之助を恨む人も多く、かつては墓が何度も倒されたり、ペンキを塗られたりもした」と明かす。
逮捕者が一名も出ない謎
栄涼寺が被害届を一度も出さない謎
>継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説「峠」がベストセラーとなった影響が大きい。
其れ、割烹 東忠(大和田爆笑)
>8代当主の弘安さん(56)は「今の日本人は欧米化して『自分が正しければそれが一番』という考えになってきている。だからこそ、正しいと思うことを貫いた継之助が評価されるようになったのだろう。自分の考えを曲げない強さはうらやましい」と笑顔をみせた。
モンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張した長岡の總督・河井 繼之助は、アメリカ人みたいな男
>継之助は女性にだらしなく、切腹一歩手前のこともいっぱいやっている。
切腹は主君に対して、「己の腹の中は黒く無い」と命を懸けてアピールするセレモニー
刑罰なら、重いと斬首、獄門
慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争から150年の節目を迎えた今年は、NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の影響もあって、明治維新が脚光を浴びている。近代日本への大転換をもたらした維新ゆかりの舞台や人物の足跡は、甲信越や静岡の各県内にも数多く残る。記者が現地を訪ね歩き、歴史の一端をひもといた。
戊辰戦争の最大の激戦となった北越戦争で徹底抗戦の指揮を執り、新政府軍(西軍)を苦しめた長岡藩の軍事総督、河井継之助(1827~68年)。長岡城の奪還作戦を敢行し、城下を火の海にした張本人として批判的な声が今も残る一方、信念を曲げず意志を貫き通す生き方に憧れを抱く人も少なくない。
「継之助は今の時代に必要な人間」。こう力を込めるのは、平成18年1月に開館した河井継之助記念館(長岡市長町)の稲川明雄館長(73)だ。
継之助は幕末に長岡藩の藩政を家老として担い、兵制改革や農政改革のほか、風紀粛正にも積極的に取り組んだ。自らも通ったとされる遊郭の禁止令を発すると「かわいかわい(河井)と今朝まで思い今は愛想もつきのすけ(継之助)」という歌が詠まれたという。
好戦的な人物として評されがちだが、本来目指していたのは「武装中立」ともされる。諸藩が国内を二分して争う中、他力に頼らず己の力で生きることを訴えた。しかし、新政府軍の軍監、岩村精一郎との和平交渉「小千谷談判」は決裂し北越戦争へと突入した。
稲川館長は「民を救うと言ったにもかかわらず、自ら戦争をして長岡を焼いてしまった。批判されるのも仕方ない」としつつ、「和平の外交が駄目になれば戦争で白黒を決めるしかない。そういう時代背景を考えないと継之助の評価はできない」と指摘する。
継之助は、12代藩主の牧野忠訓や戊辰戦争後の長岡の復興に尽力した三島億二郎らとともに栄涼寺(同市東神田)に眠る。毎年10月に継之助の法要が開かれ、昨年の没後150年法要には約50人が駆けつけたという。河井家の子孫も10年ほど前から参列している。
住職の齊藤隆信さん(51)は「長岡では継之助を恨む人も多く、かつては墓が何度も倒されたり、ペンキを塗られたりもした」と明かす。だが50年ほど前から、そうした行為は全くなくなった。継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説「峠」がベストセラーとなった影響が大きい。
齊藤さんは「小説を読み、継之助を好意的に捉える人が増えたと思う。信念を貫き、徳川家に最後まで義理を尽くし、小さな藩の家老が薩長にたてついた。民を守れなかったのは事実だが、武士としての生き方は評価できる」と語る。
「亡くなった主人(河井家7代目の正安さん)は、どんなに聞いても継之助のことは一切話さなかった」
東京都三鷹市に住む正安さんの妻、河井恵美さん(83)はこう振り返る。先々代の茂樹さんから「長岡を灰にして恨みを買っている。間違っても長岡で河井と名乗るな」と厳しく言われていたという。長岡の法要に参列することもなかった。
戦力で勝る新政府軍に服従せず、信念を曲げなかった継之助を再評価する動きは近年高まっている。
8代当主の弘安さん(56)は「今の日本人は欧米化して『自分が正しければそれが一番』という考えになってきている。だからこそ、正しいと思うことを貫いた継之助が評価されるようになったのだろう。自分の考えを曲げない強さはうらやましい」と笑顔をみせた。一方で「現在の価値観で評価しても本質がずれる。事実として淡々と継之助を記憶に留めてもらえれば、それでいい」とする。
記念館の稲川館長はこう強調した。「継之助は女性にだらしなく、切腹一歩手前のこともいっぱいやっている。だが、自分の限界を決めず志をもつ姿勢は現代人に欠けた部分。悪い面だけでなく、両面から継之助を考えてほしい」(松崎翼)
>城下を火の海にした張本人として批判的な声が今も残る
隅櫓の御三階を炎上、爆破させただけです。
城下を火の海にした張本人、実行犯は西軍です。
仮に所謂『官軍』に付いたところで、會津、荘内、桑名、米澤に長岡城下を火の海にされます。
>「民を救う」
「民を救う」は陽明学に傾倒した頃の話で、幕末も終わりの頃には、「民は吏よりも、豪い」と言った。
『民者國之本 吏者民之雇』 (たみ はくにのもと りはたみのやとい) 民が国のもとで、役人は民の雇われ人である
長岡領で一番に豪い民が、今井 孫兵衛
>住職の齊藤隆信さん(51)は「長岡では継之助を恨む人も多く、かつては墓が何度も倒されたり、ペンキを塗られたりもした」と明かす。
逮捕者が一名も出ない謎
栄涼寺が被害届を一度も出さない謎
>継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説「峠」がベストセラーとなった影響が大きい。
其れ、割烹 東忠(大和田爆笑)
>8代当主の弘安さん(56)は「今の日本人は欧米化して『自分が正しければそれが一番』という考えになってきている。だからこそ、正しいと思うことを貫いた継之助が評価されるようになったのだろう。自分の考えを曲げない強さはうらやましい」と笑顔をみせた。
モンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張した長岡の總督・河井 繼之助は、アメリカ人みたいな男
>継之助は女性にだらしなく、切腹一歩手前のこともいっぱいやっている。
切腹は主君に対して、「己の腹の中は黒く無い」と命を懸けてアピールするセレモニー
刑罰なら、重いと斬首、獄門