慶應四年閏四月二十六日 河井 繼之助が軍事總督に成る。 長岡候よりも、少し上の存在に成った。 戦時限定だが。 其れだと、小千谷談判の帰りに摂田屋の長岡軍本陣に行く筈だ。 長岡城の長岡候に報告に行くのは、摂田屋の長岡軍本陣に行った後で良い事に成る。
以下,貴世さんのメモより,
慶応四年四月二十六日時点で、長岡藩は臨戦体制なのに、 小千谷会談で「少し待ってくれ」はおかしい。
五月朔日 花輪彦左衛門がそれまで薩摩側とうまく交渉して長岡に 帰ってきた。
五月二日 (花輪が帰ってきた翌日の)小千谷会談が決裂した
五月三日 河井は小千谷に一泊し、この日午後、長岡に帰着。
五月四日 4:00am~ 会津・衝報隊の軍事行動
五月六日 尾張藩側からの再会談の話を河井はけっている。
小千谷会談の前(五月二日の)に会津の横槍が入ったとする、司馬 遼太郎氏の小説『峠』の記述は誤り。
会津藩の動向。
秋月梯次郎...米沢に派遣 ※『塵壷』で一緒。
土屋鉄之助...越後に派遣 ※
梶原平馬.....新潟に派遣
会津側からみれば、河井(長岡藩)の中立はありえない。
2400字の嘆願書を河井継之助が書いたというが、西軍側の史料に 小千谷会談時の嘆願書は載っていない(どの史料にも見られない)。 大政官建白書は、西軍史料に載っている。 嘆願書は初めから存在しないのではないか?
会談が決裂したのに、慈眼寺と西軍本陣の中間地点の場所に 一泊して酒を飲んでいるなどというのはおかしい。 決裂したなら、すぐ長岡に引き上げるはず。
「自分(河井)の首をはねて、三万両持って西軍本陣へ行け」という 逸話も、三島憶次郎の捏造の可能性がある。 三島は、戊辰戦争後の日記の記述で「東北同盟は正しい」と 書き残している。だいたい河井ともあろうものがそんなレベルの低いことを言うであろうか!
[匿名さん]
以下,貴世さんのメモより,
慶応四年四月二十六日時点で、長岡藩は臨戦体制なのに、 小千谷会談で「少し待ってくれ」はおかしい。
五月朔日 花輪彦左衛門がそれまで薩摩側とうまく交渉して長岡に 帰ってきた。
五月二日 (花輪が帰ってきた翌日の)小千谷会談が決裂した
五月三日 河井は小千谷に一泊し、この日午後、長岡に帰着。
五月四日 4:00am~ 会津・衝報隊の軍事行動
五月六日 尾張藩側からの再会談の話を河井はけっている。
小千谷会談の前(五月二日の)に会津の横槍が入ったとする、司馬 遼太郎氏の小説『峠』の記述は誤り。
会津藩の動向。
秋月梯次郎...米沢に派遣 ※『塵壷』で一緒。
土屋鉄之助...越後に派遣 ※
梶原平馬.....新潟に派遣
会津側からみれば、河井(長岡藩)の中立はありえない。
2400字の嘆願書を河井継之助が書いたというが、西軍側の史料に 小千谷会談時の嘆願書は載っていない(どの史料にも見られない)。 大政官建白書は、西軍史料に載っている。 嘆願書は初めから存在しないのではないか?
会談が決裂したのに、慈眼寺と西軍本陣の中間地点の場所に 一泊して酒を飲んでいるなどというのはおかしい。 決裂したなら、すぐ長岡に引き上げるはず。
「自分(河井)の首をはねて、三万両持って西軍本陣へ行け」という 逸話も、三島憶次郎の捏造の可能性がある。 三島は、戊辰戦争後の日記の記述で「東北同盟は正しい」と 書き残している。だいたい河井ともあろうものがそんなレベルの低いことを言うであろうか!
[匿名さん]