博多の歴女 白駒 妃登美 グループページ 「おてんとうさま」 2時間前 · 私が司馬作品をランキングするとしたら、作品の完成度からいえば、No.1は『峠』かな。越後長岡藩家老・河井継之助(つぎのすけ)の“ザ・武士道”と呼びたくなる美しい生きざまに、どれほど涙したことでしょう。 継之助の師は、備中松山藩の藩政改革を成し遂げた、山田方谷。方谷先生からすれば、どこの馬の骨ともわからない人物が、現在の新潟から岡山まで、はるばる自分を訪ね、学びに来たのです。当時は、藩が国のように、それぞれの立場を主張していがみ合っていた時代です。にもかかわらず、方谷先生は、佐藤一斎塾の塾頭として学びえたこと、さらに松山藩の10万両(約300億円)あった借金をたった8年の間に完済し、逆に10万両の蓄財に変えた、その現場で得たもののすべてを、継之助に伝授したのです。 私が忘れ得ない、『峠』の名場面。それは、継之助が方谷のもとを去るとき、あのプライドの高い男が、思わず土下座して感謝の気持ちを伝えた場面です。私は岡山を訪れるたびに、その場面に思いを馳せては、胸がいっぱいになっていました。あの名場面は、実は司馬さんのフィクションではなく、実話なんです。あれから150余年、長岡の人々は、この縁を、恩を、忘れてはいなかった……。歴史の素晴らしさを改めて感じさせてくれる、素敵な記事です(*^^*) https://www.j-cast.com/2018/07/12333677.html?p=all
https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/201709160001/
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安政6年(1859年)方谷先生55歳頃、藩士の土着政策を実施し、自らも西方村長瀬を切り開き居宅を構えました。
この地にあの有名な河井継之助がやって来て方谷先生の元を去る際に三度の土下座を繰り返して方谷先生を生涯の師と仰いだ場所と言い伝えられております。
この地に明治元年(1868年)方谷先生64歳頃、現在の方谷駅近くに家塾・長瀬塾を開き多くの子弟の教育にあたられました。
>この地にあの有名な河井継之助がやって来て方谷先生の元を去る際に三度の土下座を繰り返して方谷先生を生涯の師と仰いだ場所と言い伝えられております。
三顧の礼の故事をヒントにして、講談師が山田方谷を偉く見せ掛ける為に三度の土下座にアレンジしたのです。
>方谷先生を生涯の師と仰いだ
山田方谷の弟子が捏造した話を広めた。
我自身に尋ねたところ、
主君を裏切り、戦わずして薩長に降参した山田方谷を河井 繼之助は馬鹿にして居たそうです。