>安政7年{万延元年}(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。
つまり、水戸脱走兵を発生させた責任が松平容保に有るのです。
水戸徳川家を討てば損害も出ますが、軍隊に実戦のスキルが貯まります。
この当時の横濱の外国人たちは、軍事で介入する実力が有りませんでした。
欧米列強に付け込まれる心配は有りませんでした。
日本に害しか齎さない水戸徳川家を討つべきでした。
會津の松平家で徳川慶喜に謁見できるのは、松平容保と家老のみだったそうです。
家老に就任して居ない神保修理は、徳川慶喜に謁見して居ないそうです。
神保修理は切腹を行わなかったそうです。
神保修理は松平家中の中士三名に斬り殺されたそうです。
http://blogs.yahoo.co.jp/quasar2012q/13776982.html
http://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/201206060000/
松平容保が御宸翰を大坂城に置き忘れたので、
御宸翰を持った神保修理が騎馬で松平容保を追った。
この美談は創作された話だそうです。
鳥羽・伏見の戦いが勃発する前に、
軍装する際に松平容保は、御宸翰を入れた竹筒を首に下げたそうです。
我自身に尋ねたところ、
三郎の切り取られた髷が還って来ただけだそうです。
山本覚馬が「万国公法に則り、領主を助命せよ」
我自身に尋ねたところ、
幕末の頃に「万国公法云々の逸話」は全て、明治時代に捏造されたものだそうです。
「万国公法」なんて漠然とした和訳で、実情に合って居ません。
江戸総攻撃の前に西郷吉之助の部下をイギリス公使のハリー・パークスが、
「降伏した徳川慶喜を死刑に処するは、欧米列強の公法に反する」みたいな事を言って、脅したのだろう。
万国なんて、未開の弱小国まで含まれますから。
薩摩・中川宮に會津が唆されて起こした文久三年八月十八日のクーデター
薩摩・中川宮の悪事に加担して、長州勢力を京から追放して御宸翰を賜った。
御宸翰を賜った事実を根拠に會津は、自己を正当化して居るのです。
孝明天皇の攘夷とは、流血を回避した上での攘夷だったのです。
暗殺や戦争を抜きにした攘夷なんて不可能です。
蛤御門の変で會津は焼玉で京都を炎上させました。
この時点で松平容保は切腹するべきでした。
世良修蔵が「松平容保の首級を差し出させ」と迫ったのは、正論だったのです。