慶応四年旧8月24日、南会津方面で転戦していた朱雀(すざく)四番寄合組 中隊の隊長である国家老山川大蔵のもとに「城中兵少なく守備薄弱なり 速やかに帰城すべし、但し途中の戦斗を避くべし。」との藩公からの命 令で、山川隊長は早速兵をまとめ、大内峠を越えて下小松村に到着した のは24日の夕方暗くなる頃であった。斥候を出して城下の状況を探 らせると、城は敵の重囲の中にあって蟻の這い入る隙もないくらいとの 報告であった。山川隊長は、彼岸獅子の鼓笛を利用して軍楽隊を組織し、 西軍の別動隊に見せかけ敵の目を欺いて入城する策戦を考えた。しかし これは危険な賭で、見破られれば袋の鼠であり、全員戦死を覚悟しなけ ればならない。山川隊長はこの旨を長老達に話をして協力を求めた。長 老達は村人達に「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」という山川 の言葉を伝えた。村人の意気は大いに揚がった。しかしいざ隊員の選出 となると何しろ一歩間違えば皆殺しか、ただでは帰れない危険性を孕ん でいる。そこで自選や他選もあったが、独身者を主とするということに し、隊長高野茂吉以下十名が選ばれた。隊員は次の人達である。
御 弓 藤田 与二郎(11才)
大夫獅子 蓮沼 千太郎(12才)
雄獅子 大竹 己之吉(12才)
雌獅子 中島 善太郎(12才)
笛 高野 茂吉(30才)
〃 高木 金三郎(14才)
太 鼓 渡部 藤吉(18才)
〃 大竹 小太郎(14才)
〃 藤田 長太郎(17才)
〃 高野 長太郎(15才)
以上十名は、26日の未明家族と水盃を交わし、大川を密かに渡っ て飯寺村に入り、獅子隊を先頭にして隊伍を整い、西軍の守備している 陣の南端に出ると一斉に「通り囃子」 の吹鼓で行進したが、西軍はその 妙なる音律と整然たる隊伍を見て友軍とでも勘違いしたか、或いは新し く組織された軍楽隊とでも思ったのか、呆然としてその所属すら問わな かったといわれている。かくて山川隊は一兵も損じることなく入城する ことができた。
このことは、山川隊長の機略によるものとはいい、何といっても獅子 隊の少年達の勇気ある行動である。白虎隊は武士の子息で当然とも言え るが、小松の獅子隊は農民の子息であり、この壮挙は白虎隊以上に評価 されるべきものである。獅子隊は後に全員帰村したが、明治四年二月十 七日御薬園において、松平容保・容大父子からその功績を讃えられ、小 松獅子に限って頬掛けと高張提灯に葵の紋章の使用が許された。
明治四年は松平容保・容大の父子は斗南藩に居るので、小松村の連中に依る、歴史の捏造です。