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一ノ瀬 要人を顕彰せず、感謝もしない只見町の人たち。

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継之助を悼み只見で墓前祭 牧野家当主も参列

 長岡藩家老として戊辰戦争を戦い、逃れた只見で死去した河井継之助の没後百五十年墓前祭は命日の十六日、墓のある只見町の医王寺で行われた。長岡藩主だった牧野家の十七代当主忠昌氏(76)も参列し、継之助をしのんだ。
 地元の塩沢観光協会と塩沢区が毎年営み、今年は町内のほか新潟県などから約八十人が出席した。長岡城の攻防で継之助が和平交渉をした「小千谷談判」の舞台・慈眼寺(新潟県小千谷市)の船岡芳英住職が墓前で読経した。
 田村勝男塩沢観光協会長があいさつし、菅家三雄只見町長が「河井継之助総督の無念さ、武士としての潔さは心を打つ。総督の志を後世に伝え、越後との縁を深めたい」と追悼の言葉を述べた。忠昌氏らが焼香し、長岡市の前田剣豪会が剣舞を奉納した。
 二度目の墓前祭参列となった忠昌氏は「只見の方々に手厚くしていただき、とても感謝している」と語った。
 継之助は長岡城攻防戦で敗れ、現在の新潟、福島県境の峠道「八十里越」を通って只見にたどり着いたが、一八六八(慶応四)年八月十六日、戦傷がもとで只見の医師宅で死去した。

​​戊辰戦争が始まった慶応四年、家老職に就いて越後口総督となって桑名藩の立見鑑三郎や長岡藩家老の河井継之助とともに北越戦線を転戦した。長岡城攻防戦では足に被弾して重傷を負って自害を覚悟した河井を秋月悌次郎と説得して会津藩領まで退避させた。(結局、河井は傷が悪化して死亡した。)

河井 繼之助を敬愛する者や、河井 繼之助のファンが只見町の河井継之助記念館を訪れて、金を落として行きます。
これも秋月悌次郎と一ノ瀬 要人の御蔭とも言えます。
秋月悌次郎は生き延びて、明治時代に出世したので兎も角、
一ノ瀬 要人を顕彰せず、感謝もしない只見町の人たち。

會津の政治力はある意味では、新政府を凌駕して居た。
長岡の獨立特行を越後口總督の一ノ瀬 要人が認めて、長岡の總督の河井 繼之助を味方に付けた。
長岡の獨立特行を認めなかった新政府は、長岡軍に三ヵ月近く苦戦した挙句に總督の高倉 永祜を長岡軍決死隊に討たれた。
慶應四年八月二十七日に漸く明治天皇は即位した。

會津軍の總督で唯一戦死した真の猛将 一ノ瀬 要人

長岡の獨立特行を認めてくれた會津の為にも戦った河井 繼之助
我に尋ねたところ、
このままでは、あの世に居る河井 繼之助に合わせる顔が無いので、
一ノ瀬 要人は自ら陣頭に立って、エンフィールド銃を撃ち被弾する迄、戦い続けたそうです。
河井 繼之助のファンならば、一ノ瀬 要人を愛するのは必然である。

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