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衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後の論評を信じた司馬遼太郎は愚か者

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2009年01月22日 会津藩家老で唯一の戦死者 一ノ瀬要人

一之瀬要人は天保二年、会津藩家老(千三百石取り)一之瀬要人隆鎮の長男として生まれる。妻は同じく家老職の西郷頼母の妹・幾与子。藩主・松平容保が京都守護職を拝命した時に番頭として随行し、蛤御門の戦いで奮戦した。元治元年、天狗党の乱が起こった時に隊を率いて出兵したが天狗党が越前加賀で投降した為に一之瀬は現地に入らずに終わってしまった。そのために一之瀬の部下には藩からの手当てが出なかった(現地入りした藩士には手当てが支給された)。一之瀬は部下の為に藩に再三手当てを出してくれるように交渉するが聞き入れてもらえず、ついに辞職を願い出る。慶応二年、父・要人隆鎮が他界したのちに「要人」を襲名して若年寄となり千五百石を賜る。戊辰戦争が始まった慶応四年、家老職に就いて越後口総督となって桑名藩の立見鑑三郎や長岡藩家老の河井継之助とともに北越戦線を転戦した。長岡城攻防戦では足に被弾して重傷を負って自害を覚悟した河井を秋月悌次郎と説得して会津藩領まで退避させた。(結局、河井は傷が悪化して死亡した。)その後、戦場が会津若松城外に移り、一之瀬隊は唯一城と城外との補給路として確保されていた城南方面の守りを固める為に塩川周辺に布陣した。中荒井周辺にいた萱野権兵衛率いる隊とともに一之瀬隊は一ノ堰に移動したが、ここで新政府軍と遭遇して戦闘となり会津藩軍の攻撃が素早く優位に戦った。新政府軍は劣勢を挽回しようと増援部隊を送り込んだが犠牲者が多くなりついに引き上げた。双方に多くの戦死者を出した徳久村の戦いに勝利した一之瀬隊では総督の一之瀬要人が自ら陣頭に立ち銃を撃って奮戦するが激戦の中被弾し重傷を負う。また、隊長の西郷刑部、大竹主計、原早太ら主要幹部が戦死すると言う大きな打撃を受けた。一之瀬要人は桑原の病院で治療を受けるが藩主・松平容保から降伏開城の親書を受け取った翌日に息を引き取ったと言う。享年三十八歳・・北越戦争でともに戦った衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後らからは「堕弱」と酷評されたが生まれた時から千三百石取り家老職の家柄の坊ちゃんであった一之瀬要人としては上出来の戦いぶりだったと思う。

北越戦争でともに戦った衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後らからは「堕弱」と酷評された

衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後の論評を信じた司馬遼太郎は愚か者

今井信郎は坂本龍馬を斬った。 と嘘吐きで有名

米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。
明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。
藩費による英学の東京勤学を認められ、慶應義塾の教授・吉田賢輔を介して福澤諭吉や小幡篤次郎らの教えを受ける。
4月に入ると14歳の長男・甘粕鷲郎(竹太郎)を上京させ、慶應義塾に入学させた。後に鷲郎は手代木勝任の娘と結婚し、その娘の初子は新島八重の養女となっている。
同年7月、待詔院出仕が決まるがまもなく死去。享年38。

>明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
>この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。

要するに、甘粕継成は自分勝手な犯罪者

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