https://www.youtube.com/watch?list=PLhZoFM6EdtW8YH37j1RBdLH-_WmLDvvGL&v=ZOcFnTnMZpc
会津若松市の人たちも、外国人も、センスが悪くて頭が悪いですね。
宸翰が正しい 御宸翰と呼び、書く会津若松市の人たちと外国人は、馬鹿で教養が無い。
以前の我も御宸翰と呼び、書いたので、馬鹿で教養が無い。
2ちゃんねらーの書き込みで、宸翰が正しいと知りました(大和田爆笑)
宸翰
https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/201808090001/
小松獅子隊による無血入城
慶応四年旧8月24日、南会津方面で転戦していた朱雀(すざく)四番寄合組 中隊の隊長である国家老山川大蔵のもとに「城中兵少なく守備薄弱なり 速やかに帰城すべし、但し途中の戦斗を避くべし。」との藩公からの命 令で、山川隊長は早速兵をまとめ、大内峠を越えて下小松村に到着した のは24日の夕方暗くなる頃であった。斥候を出して城下の状況を探 らせると、城は敵の重囲の中にあって蟻の這い入る隙もないくらいとの 報告であった。山川隊長は、彼岸獅子の鼓笛を利用して軍楽隊を組織し、 西軍の別動隊に見せかけ敵の目を欺いて入城する策戦を考えた。しかし これは危険な賭で、見破られれば袋の鼠であり、全員戦死を覚悟しなけ ればならない。山川隊長はこの旨を長老達に話をして協力を求めた。長 老達は村人達に「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」という山川 の言葉を伝えた。村人の意気は大いに揚がった。しかしいざ隊員の選出 となると何しろ一歩間違えば皆殺しか、ただでは帰れない危険性を孕ん でいる。そこで自選や他選もあったが、独身者を主とするということに し、隊長高野茂吉以下十名が選ばれた。隊員は次の人達である。
大夫獅子 蓮沼 千太郎(12才)
雄獅子 大竹 己之吉(12才)
雌獅子 中島 善太郎(12才)
笛 高野 茂吉(30才)
〃 高木 金三郎(14才)
太 鼓 渡部 藤吉(18才)
〃 大竹 小太郎(14才)
〃 藤田 長太郎(17才)
〃 高野 長太郎(15才)
以上十名は、26日の未明家族と水盃を交わし、大川を密かに渡っ て飯寺村に入り、獅子隊を先頭にして隊伍を整い、西軍の守備している 陣の南端に出ると一斉に「通り囃子」 の吹鼓で行進したが、西軍はその 妙なる音律と整然たる隊伍を見て友軍とでも勘違いしたか、或いは新し く組織された軍楽隊とでも思ったのか、呆然としてその所属すら問わな かったといわれている。かくて山川隊は一兵も損じることなく入城する ことができた。
このことは、山川隊長の機略によるものとはいい、何といっても獅子 隊の少年達の勇気ある行動である。白虎隊は武士の子息で当然とも言え るが、小松の獅子隊は農民の子息であり、この壮挙は白虎隊以上に評価 されるべきものである。獅子隊は後に全員帰村したが、明治四年二月十 七日御薬園において、松平容保・容大父子からその功績を讃えられ、小 松獅子に限って頬掛けと高張提灯に葵の紋章の使用が許された。
明治四年は松平容保・容大の父子は斗南藩に居るので、小松村の連中に依る、歴史の捏造です。
一ノ瀬 要人を取り上げて居ないので、会津若松市の人たちも、外国人も、センスが悪くて頭が悪いですね。
今年の一月から我が書き出した事ですが、
時代は北越の蒼龍、會津の虎
會津軍の總督で唯一戦死した真の猛将 會津の虎 一ノ瀬 要人
會津の政治力はある意味では、新政府を凌駕して居た。
長岡の獨立特行を越後口總督の一ノ瀬 要人が認めて、長岡の總督の河井 繼之助を味方に付けた。
慶應四年八月二十七日に漸く明治天皇は即位した。
長岡の獨立特行を認めてくれた會津の為にも戦った河井 繼之助
我に尋ねたところ、
このままでは、あの世に居る河井 繼之助に合わせる顔が無いので、
一ノ瀬 要人は自ら陣頭に立って、エンフィールド銃を撃ち被弾する迄、戦い続けたそうです。
河井 繼之助のファンならば、一ノ瀬 要人を愛するのは必然である。