http://www.uxtv.jp/toge/
>当日は、林修先生に加えて、東京大学史料編纂所教授 本郷和人先生にも解説者としてご出演頂きました。会場には、第三代「峠」王を目指して予選を勝ち抜いた6人の他、関係6自治体のご担当者や、長岡市の中学生、「峠」王プロジェクトを紹介した歴史雑誌を読んで愛知からかけつけたファン等、20人余りが参加されました。
収録に参加した皆さんにとっては、林先生を身近に感じられる1日となりました。
放送日時については、HP等でお知らせを致します。<
「峠」王プロジェクトに今年から、長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長が出て居ませんね。
長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長では、「峠」王に箔が付かないから?
http://wassatv.blog134.fc2.com/blog-entry-385.html
只見地域の農民たちは山内大学が指揮する「山内隊」に参加し農兵として越後まで行って戦っています。指揮をした山内大学は16世紀まで、只見、金山などの地域を治めた領主の子孫で、農兵として参加した農民たちはその家臣の子孫たちでした。農民といえども何代も侍の血が流れていたのでしょう「先祖様たちが切り開いた土地は渡さん」という思いで越後まで行き戦ったのでしょう。
>当日は、林修先生に加えて、東京大学史料編纂所教授 本郷和人先生にも解説者としてご出演頂きました。会場には、第三代「峠」王を目指して予選を勝ち抜いた6人の他、関係6自治体のご担当者や、長岡市の中学生、「峠」王プロジェクトを紹介した歴史雑誌を読んで愛知からかけつけたファン等、20人余りが参加されました。
収録に参加した皆さんにとっては、林先生を身近に感じられる1日となりました。
放送日時については、HP等でお知らせを致します。<
「峠」王プロジェクトに今年から、長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長が出て居ませんね。
長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長では、「峠」王に箔が付かないから?
http://wassatv.blog134.fc2.com/blog-entry-385.html
ついでに書いておきます(苦笑)
新潟のローカルテレビにこの館長さんが出て話しているのを何度か見ましたが、
あまりにズレている発言が続き毎度テレビを消しましたw
以前から、長岡の河井継之助博物館の稲川館長は素っ頓狂な発言が多いのです。
「河井継之助が嫌いだった」
「自ら戦争をして長岡を焼いてしまった。(河井継之助) 批判されても仕方ない」
極め付きが「只見町史では越後から1万5千人としているが、越後平野で戦っていた同盟軍(東軍)は8000人だから、ちょっとまゆつば じゃないか」などと、新潟県内の講演会などで公然と只見町史を「まゆつば」と発言する始末。
河井継之助の好き嫌いは個人の考えなので、河井継之助博物館の館長であろうが勝手だと思いますが、戦争して長岡を焼いた責任を河井一人に背負わせるのも1万歩譲っても、只見町史を「まゆつばじゃないか」と公然でいうのは、只見町史に失礼ではありませんか?
越後平野から只見へ逃れたのは兵士だけでなく、長岡藩士と家族、農民、町民などです。
当時、長岡藩士と家族だけで約8000人。東軍兵(米沢・会津藩など)が約6〜7000人。
農民、町民だけで約11万人。
仮に、その1割弱が只見へ避難したとしても約1万5千人〜2万人程度だと推定できます。
素人の歴史好きのおっさんが居酒屋で「越後から只見への避難者数、只見町史の数は、まゆつばじゃないか」というのは自由ですが、河井継之助記念館の館長という立場の公人が、公衆の面前で「まゆつば」だと話すには根拠を示さなければなりません。
「越後平野で戦ってた同盟軍(東軍)の兵は8000人だったから」には、長岡藩士と家族、農民、町民の数も入っていない、思い込みのカウントです。
正確な人数など避難してきた長岡藩も、受け入れた会津藩もわかりません。
なにしろ戦争中ですから。
なにしろ戦争中ですから。
それでも、現場になった只見地域に残っている資料から、推定した人数を只見町史は記しているのでしょう。
そして、ついでの、ついでにw 只見地域の人々の戊辰戦争の農民の話を書いときます。
只見地域の農民たちは山内大学が指揮する「山内隊」に参加し農兵として越後まで行って戦っています。指揮をした山内大学は16世紀まで、只見、金山などの地域を治めた領主の子孫で、農兵として参加した農民たちはその家臣の子孫たちでした。農民といえども何代も侍の血が流れていたのでしょう「先祖様たちが切り開いた土地は渡さん」という思いで越後まで行き戦ったのでしょう。
越後平野には会津藩の飛び地が数多くありました。越後の人々と只見地域の人々は、ずっと交流があったのです。
「死を美化しななった、近代的だった長岡藩」
「只見史の避難者1万5千人は、まゆつばじゃないか」
長岡市 河井継之助記念 稲川昭雄館長。
こういう人物が新潟の歴史関係では重宝されています。。
各市町村に素人の凄い郷土史家が居る会津では(他でも)観衆から突っ込まれまくりですよ。
いやはや、なんとも、、
いやはや、なんとも、、
今年、奥羽越列藩同盟だった土地と、明治政府側だった土地でそれぞれ「戊辰150年」や「明治150年」と位置づけ、それぞれ様々な企画をしている。
「戊辰150年」を掲げる土地では、戊辰戦争と明治維新の歴史的検証が行われています。
長岡市が「戊辰150年」「明治150年」とも掲げない、掲げられない理由の一つが分かった気がしました。先人たちの歴史を伝える人が、これなのだから、しかたないな、、、と。。 ふぅ
おしまい。
このブロガーは間違った事も書いて居ますが、
長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長の実像を伝えるブログ記事の表現は秀逸ですね。
河井継之助-Wikipediaの我が編集した記事を削除して、編集から我をブロックした連中は、
長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長を妄信する歴史音痴の連中なのです。
このブロガーは間違った事も書いて居ますが、
長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長の実像を伝えるブログ記事の表現は秀逸ですね。
河井継之助-Wikipediaの我が編集した記事を削除して、編集から我をブロックした連中は、
長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長を妄信する歴史音痴の連中なのです。