てか、西南戦争では西郷軍に参加した会津士族もいたらしいな。
そういう全国の士族が西郷に寄せた期待とか、会津史観の捏造によって無視される傾向があるな。
こてんぱにやられてボロボロの状態で、10年前の戊辰の報復戦とかアホかっつーの。
会津士族じゃなくて、斗南士族でしょうが。
其の会津士族の姓名を記さない貴公は、嘘吐きと言う事に成ります。
会津史観の捏造じゃなくて、貴公による捏造だ。
墓所の説明板によると
「庄内藩士、伴兼之、明治10年3月20日、肥後植木で戦死、20歳。榊原政治、肥後御船で負傷、延岡病院で戦死、18歳」
西郷吉之助を神として崇拝した荘内士族ですら、
私学校に留学していた少年二人が西郷軍(実態は桐野軍)に参加しただけです。
私学校が暴走する前に既に明治政府は士族を九州に渡らせない様に港を陸軍と警察が見張っていた筈だ。
二本差しだった士族は廃刀令が施行されても歩き方で士族だと分かったのだ。
私学校に留学していない荘内士族の西郷軍(実態は桐野軍)に参加者が0だった事が、
士族を九州に渡らせない様に港を陸軍と警察が見張っていた事を立証して居る。
http://www.city.yame.fukuoka.jp/kouhou_yame/arekore/a16.html
http://sivato.blogzine.jp/999/2010/03/9_01ef.html