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今朝の新潟日報に連載の河井継之助『龍が哭く』

我自身に尋ねたところ、
牧野忠訓の名代の河井 繼之助は、
朝廷に建白書を提出して居ないそうです。
其れどころか入京すら、して居なかったそうです。

建白書の草稿を河井 繼之助が板倉勝静に見せただけだそうです。

「これまで通りに全てを徳川氏に委任することにより他には、治安の道はないものと思います。」
これを本当に建白書に書いたのならば、
生きて朝廷から、出れない筈です。
鳥羽・伏見の戦いの後に、長岡は追討される筈です。

河井 繼之助は副使・三間市之進、付添・渋木成三郎を従えて、御所鶴乃間に入った。
これが大嘘なのです。
渋木成三郎は戊辰北越戦争中に所謂『官軍』の占領地で、自ら諜報活動を行いました。
付添・渋木成三郎が御所鶴乃間に入ったのならば、
御所を警護する所謂『官軍』に渋木成三郎の面が割れて居る事に成ります。

渋木成三郎は戊辰北越戦争中に所謂『官軍』の占領地で、自ら諜報活動を行った。
御所を警護する所謂『官軍』に渋木成三郎の面が割れて居ない、
即ち、渋木成三郎は慶應三年十二月に入京すら、して居なかった事に成ります。


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