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今朝の新潟日報に連載の河井継之助『龍が哭く 』

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秋山香乃のオバちゃん、勉強不足ですね。

會津の敵は、仙臺と米澤


テーマ随筆をクリックする。➡第13回 「世良修蔵暗殺事件の周辺」をクリックする。

仙臺が新政府に「會津を討伐したい」と申し出たのです。


戊辰戦争直前の米沢藩の動向
 朝敵となった旧幕府に味方をしようとした失態を挽回する為に、米沢藩首脳部は新進気鋭の奉行(米沢藩での家老の呼称)である千坂高雅(当時二十七歳)を京の新政府に派遣します。この千坂は「一藩皆兵、一家一兵、一兵一銃」をスローガンとする軍制改革を行うなど、旧態依然と化していた米沢藩兵の軍制を近代化(西洋化)を指導していた人物であり、その下には米沢藩の戊辰戦争に大きく関わることになる甘糟継成雲井龍雄宮島誠一郎などの俊英が集っていました。
 しかし京から離れた米沢の情勢とは裏腹に、既に京では新政府の権力が確立しており、米沢藩の京藩邸勘定頭真野寛助が、二月十ニ日に奥羽鎮撫総督府に招かれ、「討会ノ際米沢口ハ弊藩一手ニテ足ル、他藩ノ援助ニ要ナキ」と陳言する情勢でした(上杉家御年譜17 P630)。このような新政府の勢いを目の当たりにした上洛した千坂は、新政府に抗する不利を悟り、新政府より大隊旗を下賜され、速やかに国許に戻り、奥羽鎮撫総督に協力するようにと指示を受け米沢に帰る事になります(*4)。



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