http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1348101251/
362 :諸橋 嘉久:2012/10/17(水) 09:58:57.47 ID:OL4eURe50
元治元年6月10日(1864年7月13日)に、幕府により池田屋事件の残党の捕縛を命じられた新選組が、
同日に東山の料亭「明保野」(「あけぼの」「曙」とも)に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得た。
武田観柳斎率いる新選組隊士15名と、前日より応援として派遣されていた会津藩士20名のうち5名が共に捕縛に向かった。
現場で会津藩士の柴司が、座敷にいた武士を制止しようとしたところ、相手が逃げ出したため、取り押えようと追跡のうえ槍で傷を負わせた。
直後に相手が浪士ではなく土佐藩士麻田時太郎(時次郎、とする説もある)と判明したため、その場で解放した。
当初、柴の行為に問題無しとして念のため会津藩から医師と謝罪の使者を送り、
これに対し土佐藩側も最初に名乗らなかった麻田にも落ち度があると理解を示していたものの、
翌6月11日に麻田が「士道不覚悟」として藩により切腹させられたことにより、
若い土佐藩士たちが「片手落ち」(不公平)だと激昂し、会津・土佐の関係に亀裂が入りかねない事態へと発展した。
結局6月12日に柴司が謝罪の意で切腹し、両者の関係悪化は回避された。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%98%8E%E4%BF%9D%E9%87%8E%E4%BA%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BF%9D%E9%87%8E%E4%BA%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>若い土佐藩士たちが「片手落ち」(不公平)だと激昂し、
逃げた浅田時太郎が全面的に悪い。
捕吏に背を向けて逃げて追い付かれて、槍で脚の裏側を刺された浅田時太郎は、
士道不覚悟で切腹が妥当だ。
柴司に落ち度は全く無い。
この様な処断しか下せない弱腰の松平容保が、
況してや遺恨の無い坂本龍馬を暗殺できる筈が無い。
362 :諸橋 嘉久:2012/10/17(水) 09:58:57.47 ID:OL4eURe50
元治元年6月10日(1864年7月13日)に、幕府により池田屋事件の残党の捕縛を命じられた新選組が、
同日に東山の料亭「明保野」(「あけぼの」「曙」とも)に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得た。
武田観柳斎率いる新選組隊士15名と、前日より応援として派遣されていた会津藩士20名のうち5名が共に捕縛に向かった。
現場で会津藩士の柴司が、座敷にいた武士を制止しようとしたところ、相手が逃げ出したため、取り押えようと追跡のうえ槍で傷を負わせた。
直後に相手が浪士ではなく土佐藩士麻田時太郎(時次郎、とする説もある)と判明したため、その場で解放した。
当初、柴の行為に問題無しとして念のため会津藩から医師と謝罪の使者を送り、
これに対し土佐藩側も最初に名乗らなかった麻田にも落ち度があると理解を示していたものの、
翌6月11日に麻田が「士道不覚悟」として藩により切腹させられたことにより、
若い土佐藩士たちが「片手落ち」(不公平)だと激昂し、会津・土佐の関係に亀裂が入りかねない事態へと発展した。
結局6月12日に柴司が謝罪の意で切腹し、両者の関係悪化は回避された。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%98%8E%E4%BF%9D%E9%87%8E%E4%BA%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BF%9D%E9%87%8E%E4%BA%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>若い土佐藩士たちが「片手落ち」(不公平)だと激昂し、
逃げた浅田時太郎が全面的に悪い。
捕吏に背を向けて逃げて追い付かれて、槍で脚の裏側を刺された浅田時太郎は、
士道不覚悟で切腹が妥当だ。
柴司に落ち度は全く無い。
この様な処断しか下せない弱腰の松平容保が、
況してや遺恨の無い坂本龍馬を暗殺できる筈が無い。