明治時代まで生き残った長岡人の反論「戊辰戦争の当時は、新町に雁木は無かった」
>河井継之助記念館の稲川明雄館長は「場所の特定はできないが、当時、継之助の作戦で家が焼かれた新町住民の複雑な心境を考えると、住民自らが調べ、こうした結論を出すのは評価できる。継之助の苦労を見直そうとする動きと言える」と話している。(朝日新聞5/25)
新町の家を焼いたのなら、雁木も焼け落ちた筈です。
外山 脩造だけで無くて、現在の新町住民も嘘吐きか、先祖が吐いた嘘に騙されて居るのか?
>長岡城奪還後、城から1,5kmほど離れた所の通りを100mほど入った所に長福寺が在る。
そこを陣地にした河井継之助が陣羽織を羽織り、通りに出たところ長州兵に狙撃された。
そこを陣地にした河井継之助が陣羽織を羽織り、通りに出たところ長州兵に狙撃された。
噓を吐いては、いけませんよ。
新町を猛攻したのは、薩摩です。
慶応四年(1868)七月二十四日深夜。 河井継之助に率いられた長岡藩軍は、長岡城北東に広がる八丁沖と呼ばれた大きな沼(現在は干拓されてありません)を渡って、長岡城下を襲撃。 主力は出払っており、西軍(新政府軍)は、総崩れ。長州の山県狂介(のちの山県有朋)が大急ぎで寝間着のまま逃走したという話が伝わっています。 ここに、長岡藩は二ヶ月ぶりに長岡城を奪い返すことに成功します。町民たちは喜んで出迎え、「長岡甚句」を謡って踊ったそうです。 しかし、朝になると、北方にいた薩摩藩兵が反転して南下。昨晩から睡眠をとらずに戦い続ける長岡藩兵を容赦なく攻撃しはじめます。 本来のシナリオでは、長岡城奪回に合わせて、同盟軍米沢・会津兵なども薩摩兵を追い落とすはずでしたが、米沢兵らの動きは緩慢でした。そのため長岡藩兵は敵中に孤立して死傷者続出。長岡城北部防衛線は薩摩兵に突破されそうになります。 その激戦地は、推定、左の地図の○をした付近です。 | |
「慶応年間長岡城下地図」より | 下の方に緑の線で囲まれているのが長岡城。その北方に伸びる道路。薩摩兵が道幅の広い方を選んで進んでくるとして、押される長岡兵がじりじりと神田橋門へ下がっていったとするとやはり、紫で○をしたあたり・・。 |