>同市西新町一丁目の長福寺に伝わる「陣羽織を着て、寺の参道を出たところで狙撃された」との説
陣羽織は着るのでは無くて、羽織るものです。
教養の無い長福寺
>長岡城奪還後、城から1,5kmほど離れた所の通りを100mほど入った所に長福寺が在る。
そこを陣地にした河井継之助が陣羽織を羽織り、通りに出たところ長州兵に狙撃された。
そこを陣地にした河井継之助が陣羽織を羽織り、通りに出たところ長州兵に狙撃された。
流石は大卒、教養が有りますね。
『陣羽織を狙撃して、何故か左膝下に弾丸が命中した』
此れを論破して差し上げましょう。
致人隊 | |
兵数 | 15 |
隊士 | 足軽の内狙撃の上手な者を集めて編成された特殊部隊。 その選抜方法は、青銅銭を糸で釣り下げて回転させ、表を向いた時に数十間から撃って弾を当てた者のみを採用すると言う凄まじい物であった。 |
経歴 | 「致人隊」と云えば桑名藩の部隊が有名だが、これは長州藩諸隊の一つ。ちなみに、「致人」とは孫子第六篇・虚実篇にある言葉で、先制攻撃により相手を思うがままに引き摺りまわしている様を表している。 干城隊附属の小隊。森林や丘陵、建物の中にアンブッシュし、敵将校を射殺する為だけに編成された。 第二次長州征伐において、村田蔵六の指揮の許石州口に出陣。幕府の将校達を狙撃しまくったので、幕府側では派手な陣羽織は脱ぎ捨てられ、派手な衣装は染物屋で染め直され、お陰で染物屋は大繁盛であったと云う。 維新後は、亀山隊と共に御親兵に編入され、御所の警備に当たった。 眉唾物(大和田爆笑) 村田蔵六や河井 繼之助の陣羽織は、地味目でしょう。 こんな話があります。 長州軍の狙撃隊は福山藩の陣羽織を着た指揮官クラスを狙い撃ちにしてきました。その狙撃命中率は極めて高く、福山藩兵が木に枝に陣羽織を掛けて建物から差し出したところ、すぐさま陣羽織に数発の弾丸が命中したといいます。ゆえに、軍目付のある者は陣羽織を部下に着させて逃げ出したという笑い話のようなことがあったといいます。 結論は陣羽織をエンフィールド銃で狙撃した長州兵の命中率は、100%に近い。 戊辰北越戦争で、走る河井 繼之助の陣羽織をスナイドル銃で狙撃した長州兵の命中率は、100%では無いが、 陣羽織から外れて、弾丸が左膝下に命中する確率は、0% |