その他
河井継之助記念館館長さんの講演会が7/23福島県只見町で! 講演聴いて戊辰での米沢藩の立ち位置の見方変わった。役割大きすぎたのかもって…「義」というプレッシャーを他藩が加茂軍議で… でも越後は今も上杉が好きだと。鎧兜・弓矢で多数戦死したけれども義を見せてくれたと。目頭熱くなった…
米沢藩の銃隊について
このように小銃の扱いに慣れていた米沢藩兵ですが、小銃の扱いに慣れていれば小銃隊として活躍出来るかと言えばそんな事は無く、小銃の扱いと同時に西洋軍事訓練を行なって、初めて強力な小銃隊となるのですが、小銃の扱いには長けていた米沢藩兵も西洋軍事訓練に関しては、他の奥羽諸藩と同様遅れていました。実際同じ同盟軍でも猛訓練の末に小銃隊を編成した長岡藩兵や会津藩兵と比べると米沢藩兵は訓練不足の感は否めず、練度の低い米沢藩兵は散兵戦術などはとても出来ず、各地の戦いで苦戦する事になります。
そんな実質何とか形だけは整えた感の米沢藩兵の小銃隊ですが、開戦前に大量に入手した小銃の配布にも上記の身分によって代わる旧態依然の問題もありました。まず米沢藩兵の主力となった侍組と三手組、三扶持方には新政府軍の標準装備でもあった前装施条銃のミニェー銃が供与されます(厳密には同じミニェー銃でも三手組と三扶持方では違うタイプが渡された模様です)。続いて指揮官や士官クラスには後装銃(スターク銃?)や七連発銃(スペンサー銃?)が供与されました。また米沢藩虎の子の散兵隊は全員七連発銃(スペンサー銃?)を装備していました。しかし実際には最も兵力の多い扶持方並と足軽組にはゲベール銃が供与された模様です。
このような身分によって持たせる小銃を替える編成は、上記の通り同じ隊の中で士分と足軽が同居する米沢藩の編成では、同じ隊の中でも身分によって装備する小銃が違っていました。幾ら兵士達が小銃の扱いになれていたとしても、同じ隊の中でも身分によって射程距離も発射速度がバラバラなのですから、新政府軍と比べると柔軟的な行動はとても望む事は出来ませんでした。
以上のように米沢藩兵は一口に〇〇小隊と言っても、身分や部隊によって兵士数や装備がまちまちな軍制でした。ですので当サイトとしても、単に「徳間久三郎隊」や「香坂与三郎隊」と書くので無く、「組外徳間久三郎隊」や「侍組香坂与三郎隊」と書かないと本当の意味での戦力は判らないのですが、この点は不勉強の為に掌握しきれてないので、この点は今後の課題にしたいと思います。
このように小銃の扱いに慣れていた米沢藩兵ですが、小銃の扱いに慣れていれば小銃隊として活躍出来るかと言えばそんな事は無く、小銃の扱いと同時に西洋軍事訓練を行なって、初めて強力な小銃隊となるのですが、小銃の扱いには長けていた米沢藩兵も西洋軍事訓練に関しては、他の奥羽諸藩と同様遅れていました。実際同じ同盟軍でも猛訓練の末に小銃隊を編成した長岡藩兵や会津藩兵と比べると米沢藩兵は訓練不足の感は否めず、練度の低い米沢藩兵は散兵戦術などはとても出来ず、各地の戦いで苦戦する事になります。
そんな実質何とか形だけは整えた感の米沢藩兵の小銃隊ですが、開戦前に大量に入手した小銃の配布にも上記の身分によって代わる旧態依然の問題もありました。まず米沢藩兵の主力となった侍組と三手組、三扶持方には新政府軍の標準装備でもあった前装施条銃のミニェー銃が供与されます(厳密には同じミニェー銃でも三手組と三扶持方では違うタイプが渡された模様です)。続いて指揮官や士官クラスには後装銃(スターク銃?)や七連発銃(スペンサー銃?)が供与されました。また米沢藩虎の子の散兵隊は全員七連発銃(スペンサー銃?)を装備していました。しかし実際には最も兵力の多い扶持方並と足軽組にはゲベール銃が供与された模様です。
このような身分によって持たせる小銃を替える編成は、上記の通り同じ隊の中で士分と足軽が同居する米沢藩の編成では、同じ隊の中でも身分によって装備する小銃が違っていました。幾ら兵士達が小銃の扱いになれていたとしても、同じ隊の中でも身分によって射程距離も発射速度がバラバラなのですから、新政府軍と比べると柔軟的な行動はとても望む事は出来ませんでした。
以上のように米沢藩兵は一口に〇〇小隊と言っても、身分や部隊によって兵士数や装備がまちまちな軍制でした。ですので当サイトとしても、単に「徳間久三郎隊」や「香坂与三郎隊」と書くので無く、「組外徳間久三郎隊」や「侍組香坂与三郎隊」と書かないと本当の意味での戦力は判らないのですが、この点は不勉強の為に掌握しきれてないので、この点は今後の課題にしたいと思います。
>後装銃(スターク銃?)
スタール銃ですね。
加茂軍議は米澤『甘粕繼成日記』が捏造した話