$ 0 0 https://twitter.com/rekishizatsudan/status/879181887909937152歴史雑談録 @rekishizatsudan4 時間4 時間前フォローするフォロー中 解除 ブロック中 ブロック解除 フォロー許可待ち キャンセル その他ツイートへのリンクをコピーツイートをサイトに埋め込む140年前の今日、山田方谷が亡くなりました。幕末の陽明学者。佐久間象山を言い負かせられる天才。長岡の河井継之助の師匠として有名。備中松山藩の百姓でしたがその秀才ぶりから藩政参加、多くの改革を成功させます。徳川の血統である藩主・板倉勝静に降伏を説得し、朝敵となることから救いました。48リツイート 58いいね 20:37 - 2017年6月25日https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%9D%99鳥羽・伏見の戦いの敗戦の際、慶喜と大坂にいて、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。藩主不在の備中松山藩はわずか5万石であり、新政府は隣の岡山藩32万石に錦の御旗を渡して松山討伐を命じていたので、苦境に陥った。留守を守っていた方谷は長州藩が攻めてきた場合には戦うつもりだったが、朝敵とされてしまったこともあり、松山の領民を戦火から救い、板倉家を存続させるためには、松山城を明け渡すしかないという考えで藩論が一致した。勝静と嫡男の万之進(勝全)は江戸から戻れなかったので、藩主は強制的に隠居させたことにして、先代勝職の従弟にあたる勝弼を養子として新藩主に迎え、勤王派に鞍替えして投降した。松山藩は岡山藩の管理下に置かれた。そこに鳥羽・伏見から熊田恰率いる松山藩隊150名が備中玉島に帰還した。岡山藩は熊田の首級を要求し、慶応4年(1868年)1月22日、それを知った熊田は自刃して果てた。これによって、松山は最終的に戦火を免れた。一方で江戸の勝静は、慶喜が朝敵とされたことから、1月29日に老中を辞し、2月19日に逼塞処分を受けた。3月には下野国日光山に屏居となった。さらに新政府によって宇都宮藩に移され、英厳寺に軟禁されたが、宇都宮戦争で大鳥圭介の旧幕府軍によって解放され、同じ元老中小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となった。勝静が旧幕府軍と行動を共にしていると知った新政府は態度を硬化して、松山藩は震え上がった。明治2年(1569年)2月、江戸開城で戻った嫡男の万之進(勝全)を宇都宮の新政府軍に引き渡すが、勝静自身はなおも抵抗を続けた[2]。勝静は、松平定敬や小笠原長行と共に旧幕府軍として五稜郭まで従い、同行した松山藩士も新選組に加わって土方歳三の指揮下で戦った。これはまずいと思った方谷は、松山藩士を知人のプロイセン商船に乗せて箱館に派遣し、勝静を半ば強引に江戸に連れ戻した。方谷は勝静を外遊させてほとぼりを冷まさせるつもりだったが、藩内では財政状況が思わしくなかったことから不満が出て、すぐに新政府へ自首謝罪するように求めることになった。明治2年(1869年)5月25日、帰京した勝静は翌日自訴した。8月15日、長男勝全と共に上野国安中藩で終身禁固刑となった[3]。翌月、2万石減封されながらも松山藩は再興され、岡山藩による軍政支配は終わった。明治5年(1872年)1月6日、特旨で赦免された。勝静は方谷と勝弼を慰労し、勝弼が自分や藩士たちに遠慮して家督を長男に譲ることのないように指示している。