■喜智子は、文政二年(一八一九)二月二日、会津藩士伊藤氏の三女として生まれ |
た。名を初め悦といい、体格ひとにすぐれ、性質剛健、文芸の諸芸に通じて男勝り |
の評があった。結婚して二人の子をもうけたが、姑と折り合いが悪く離婚。再婚は |
しない決意であったが藩内の諏訪大四郎に懇望されて、名を喜智(後に喜智子)と |
改めて再婚した。再婚後は内に能く治めて紊(みだ)れることがなく、外に対して |
は夫を助けて功多く、諏訪家の家運は次第に開け、大四郎は遂に禄千七百石の老職 |
にまで昇進した。また晩年もうけた一子栄は石川数馬(四百石)の養子となった。 |
■慶応四年(一八六八)八月二十三日、西軍若松城に迫るや、夫大四郎は先に登城 |
し、養子の伊助は陣将として日光口にあった。喜智は伊助の妻子と実子の栄を家の |
従長に託し、各自に五百両を腰に結わえさせて山村に潜ませ、他に金子を埋めて |
「お前たち婦女・幼童らは国に殉じなくともよい。他日この金をもって酒舗を営み |
もって諏訪家の祀りごとを絶やすことのないようにせよ。私は夫の跡を追って入城 |
し、城を枕に死ぬるつもりである」と、薙刀を携え、供の者一人を従えて追手門よ |
り入城した。 |
■その頃、追手口からの攻撃に攻めあぐねていた西軍は、やがて搦手(からめて) |
に目をつけ、城南に迂回して天神橋畔から攻撃を加えてきた。この報に接した守備 |
兵は八、九十名の決死隊を募って南門への進撃命令を伝え、小室金五郎左衛門がこ |
れを指揮して果敢に突撃し撃退せしめた。同じ頃、西出丸の讃岐門にも敵が押し寄 |
せ、今にも破られそうになったというので、松平容保は喜智に命じ戦況を見にやら |
せた。喜智は婦人十人ばかりを引き連れ、薙刀を小脇にかかえて駈け付けてみると |
味方は苦戦している。婦人達は左翼めがけて斬り込み、これを見事に撃退したとい |
う。 |
■籠城中、喜智は山川大蔵の母唐衣(からころも)と共に城内の女子の総取締りに |
任じ、死者の埋葬、傷者の介抱、食糧の炊出し、弾丸の製造などに従事した。しか |
るに戦況が振るわず、遂に喜智は操銃法を知る婦人数名を集め、一夜潜行して城を |
出、二ノ丁の敵兵を襲撃、敵兵の狼狽して逃走したのちの遺棄品を獲得して凱旋し |
た。ところがこれが城内に知れ問題となった。というのは出撃の志は嘉すべきも、 |
もし、屍体を敵に見せるような事にでもなれば、城中に兵尽きて婦女子をもって代 |
わらしめたかと思われ、却って敵の侮を招くことになりかねないと言うのである。 |
かくて婦女子の出撃は以後固く禁じられた。 |
■開城後、喜智は大沢村に住したが、斗南藩に移封となるや、実子栄とともに会津 |
に残り藩主、ならびに諏訪家の墓所を守った。晩年は瓜生岩子の慈善事業に賛同し |
瓜生会会津支部長として奔走した。後東京に移り明治四十年四月四日、八十九歳で |
没した。青山墓地に墓がある。 顕彰碑を建立せず、会津まつりに諏訪喜智子隊を登場させない会津若松人は薄情である。 |
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諏訪喜智子を顕彰しない会津若松市
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