越後出兵を事実上リードした
米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。
依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て
味方する者なし。是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。
其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民
自ら火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出
早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば
遖れ御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら
もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が
米沢藩本陣を訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと
米沢藩参謀の任にある甘粕が考えていたのが判る。
会津による市民への無差別テロの証拠史料
しかも会津の味方だった米沢の史料です。
明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。
藩費による英学の東京勤学を認められ、慶應義塾の教授・吉田賢輔を介して福澤諭吉や小幡篤次郎らの教えを受ける。
4月に入ると14歳の長男・甘粕鷲郎(竹太郎)を上京させ、慶應義塾に入学させた。後に鷲郎は手代木勝任の娘と結婚し、その娘の初子は新島八重の養女となっている。
同年7月、待詔院出仕が決まるがまもなく死去。享年38。
>明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
>この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。
要するに、甘粕継成は自分勝手な犯罪者