殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き
身の危険を感じて故郷から脱出した。
しかし旧水原代官領に住む草莽の志士
三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が
進駐して来ても留まっていたが
三月に会津藩兵の襲撃を受けて
殺害されてしまう。
(水原町編年史第一巻)
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所は
こうした行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。
(新潟市史通史編3)
何を今更?
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%8D%89%E8%8E%BD+%E7%A9%A2%E5%A4%9A&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=ie8sc&n=10&x=wrt
http://blog.goo.ne.jp/akiller_2006/e/4ef456a067b002cb5d175d74f996aa33
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/hokuetu/main4.htm
<北越戦争忠士墓>
奥羽越列藩同盟は武器弾薬の調達を新潟港に頼っており、この新潟港を会津・米沢藩が守備していた。
越後口は消極的な米沢藩の戦歴の中で数少ない戦地である。新潟港も新政府軍に奪われ撤退した。
この北越戦争での戦死者の墓である。
http://seuru.pupu.jp/sisekiyamagatayonezawa.html