「河井平吉の家は河井 繼之助の本家筋では無い。」と我自身(霊)から、情報を得て居た我ですが、
今日の新潟日報の朝刊の32面に千葉県船橋市の河井寛治が語った秘話とやらが載って居ます。
紙面では河井継之助の墓と表記されて居ますが、長岡市には河井継之助の墓など在りません。
河井 繼之助の家の墓です。
河井 繼之助の家の菩提寺は長岡市の長興寺(曹洞宗)で、河井 繼之助の家の墓が傷付けられて、
無残な様子を見かねた河井平吉(河井寛治の曾祖父)らが明治初期の深夜、墓石を荒縄でくくって手で引っ張り、
数百メートル離れた河井本家の菩提寺、栄涼寺(浄土宗)の一角に運び入れたという。
河井貞子と河井すがの両名が北海道に移住したのを良い事に、
河井 繼之助の家の本家筋と自称する河井平吉の犯罪行為です。
長興寺(曹洞宗)と河井貞子と河井すがの許可が無ければ、犯罪行為です。
明治時代に北海道から長岡に墓参りに来る事は、殆ど不可能です。
河井平吉が家系図を捏造して、河井 繼之助の家を自分の分家だと言う事にしたのです。
疑問其の一
江戸時代の本家と分家の菩提寺の宗派は同じなのが、常識です。
疑問其の二
深夜、墓石を荒縄でくくって手で引っ張るのは、バカです。
バカの苦労話の自慢ですね。
大八車を借りて、深夜、墓石を大八車で運ぶ筈です。
新潟日報モアが有ったから、コピー&ペーストが簡単だ(大和田爆笑)
河井継之助の墓石、移設されていた
戊辰戦争時の長岡藩軍事総督・河井継之助の墓石は、墓が傷つけられることに心を痛めた親族によって、別の寺から運び移されていた―。
継之助の本家筋の子孫が8日までに、こんな秘話を明かした。継之助は先進的な視野を持ち、果敢に戦ったと評価される一方で、城下を戦火に巻き込んだとして恨まれ、墓が傷つけられることもあったという。そうした中で、継之助の墓を守ろうと行動した人がいたことを示す貴重なエピソードと言えそうだ。
◇ ◇
<戊辰戦争後、足蹴や投石>
荒縄使い、数百メートル引く
秘話を語ったのは千葉県船橋市の河井寛治さん(79)。継之助の河井家は分家筋で、代々の墓は菩提(ぼだい)寺の長興寺(長岡市稽古町)にあったという。
戊辰戦争後、継之助の墓は足蹴にされたり、石を投げられたりすることもあった。無残な様子を見かねた河井本家の平吉(寛治さんの曽祖父)らが明治初期の深夜、墓石を荒縄でくくって手で引っ張り、数百メートル離れた河井本家の菩提寺、栄涼寺(長岡市東神田3)の一角に運び入れたという。
河井継之助記念館の稲川明雄館長は「継之助の墓石は摩滅が甚だしい。投石などによる損傷に加え、運び入れる作業でさらにすり減ったものだろう」と解説する。
◇ ◇
寛治さんは「敗戦という結果になったことで継之助への評価はいろいろある。このため墓石に関わることを含めてずっと口に出さないでいた」と振り返った。
証言に踏み切ったことについては「没後150年が近づき、藩政改革に挑んだ継之助の人生を評価してくれる人々が増えている。義侠(ぎきょう)心から墓石を救った先祖にも誇りがある。歴史の真相の一端を残しておきたかった」と語った。
現在継之助が眠る栄涼寺では先ごろ、没後148年祭法要が営まれた。
継之助の河井家の7代目当主、河井正安さん(ことし8月に92歳で死去)の妻恵美さん(81)=東京都三鷹市=も参列。「主人は生前、子孫であることを私がよそで聞いてきて尋ねるまで語ることはなかった。子どものころから親に『継之助の子孫と名乗るな』ときつく言われていたそうです」と語った。その上で「近年はこうして多くの方に慕われている。感謝の一言です」と話した。
■河井継之助の死と遺骨
1868年の北越戊辰戦争で長岡藩など東軍を率いた継之助は戦闘指揮中に左膝を負傷。一度は奪還した長岡城が再び落城すると、会津を目指した。しかし傷が悪化し、会津藩領の塩沢で死去。遺骨は西軍(官軍)にあばかれないように従僕の松蔵が山中に隠した。松蔵が後年持ち帰った遺骨は、栄涼寺の墓に収められた。
継之助の本家筋の子孫が8日までに、こんな秘話を明かした。継之助は先進的な視野を持ち、果敢に戦ったと評価される一方で、城下を戦火に巻き込んだとして恨まれ、墓が傷つけられることもあったという。そうした中で、継之助の墓を守ろうと行動した人がいたことを示す貴重なエピソードと言えそうだ。
◇ ◇
<戊辰戦争後、足蹴や投石>
荒縄使い、数百メートル引く
秘話を語ったのは千葉県船橋市の河井寛治さん(79)。継之助の河井家は分家筋で、代々の墓は菩提(ぼだい)寺の長興寺(長岡市稽古町)にあったという。
戊辰戦争後、継之助の墓は足蹴にされたり、石を投げられたりすることもあった。無残な様子を見かねた河井本家の平吉(寛治さんの曽祖父)らが明治初期の深夜、墓石を荒縄でくくって手で引っ張り、数百メートル離れた河井本家の菩提寺、栄涼寺(長岡市東神田3)の一角に運び入れたという。
河井継之助記念館の稲川明雄館長は「継之助の墓石は摩滅が甚だしい。投石などによる損傷に加え、運び入れる作業でさらにすり減ったものだろう」と解説する。
◇ ◇
寛治さんは「敗戦という結果になったことで継之助への評価はいろいろある。このため墓石に関わることを含めてずっと口に出さないでいた」と振り返った。
証言に踏み切ったことについては「没後150年が近づき、藩政改革に挑んだ継之助の人生を評価してくれる人々が増えている。義侠(ぎきょう)心から墓石を救った先祖にも誇りがある。歴史の真相の一端を残しておきたかった」と語った。
現在継之助が眠る栄涼寺では先ごろ、没後148年祭法要が営まれた。
継之助の河井家の7代目当主、河井正安さん(ことし8月に92歳で死去)の妻恵美さん(81)=東京都三鷹市=も参列。「主人は生前、子孫であることを私がよそで聞いてきて尋ねるまで語ることはなかった。子どものころから親に『継之助の子孫と名乗るな』ときつく言われていたそうです」と語った。その上で「近年はこうして多くの方に慕われている。感謝の一言です」と話した。
■河井継之助の死と遺骨
1868年の北越戊辰戦争で長岡藩など東軍を率いた継之助は戦闘指揮中に左膝を負傷。一度は奪還した長岡城が再び落城すると、会津を目指した。しかし傷が悪化し、会津藩領の塩沢で死去。遺骨は西軍(官軍)にあばかれないように従僕の松蔵が山中に隠した。松蔵が後年持ち帰った遺骨は、栄涼寺の墓に収められた。
河井継之助の墓前で手を合わせる河井寛治さん(左)=長岡市の栄涼寺