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會津 米澤 2ちゃんねらーを論破 まとめ(大和田爆笑)

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>個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
単なる憶測か、妄想に拠る文章だ。
>初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が
>町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
多発したのに、たったの会津藩士が数人(大和田爆笑)
町民は越権である、私刑を行った事に成ります。
>武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や
>衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
何の武器でしょうか?
町民は脇差しなら、黙認されて居ました。
侍の他が刀の二本差しをする事を禁止されて居た。
猟師は猟銃を使って居ました。
やくざはドスを所持して居ました。
>何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して
>正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に徴募された農兵は
>「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」や『竹槍』で
>小銃を装備した新政府軍に挑まされ事になる。
農兵を集めたと言う事は、少なくても何百人でしょう。
「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」こんな変な物が何百本も幕末日本に有る筈が無い。
>しかしこのような農兵の士気が上がる筈がなく
>戦いが始まれば一目散に逃げた模様である。
要するに戦死者と負傷者は 、0人ですね(大和田爆笑)

米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。
明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。
藩費による英学の東京勤学を認められ、慶應義塾の教授・吉田賢輔を介して福澤諭吉や小幡篤次郎らの教えを受ける。
4月に入ると14歳の長男・甘粕鷲郎(竹太郎)を上京させ、慶應義塾に入学させた。後に鷲郎は手代木勝任の娘と結婚し、その娘の初子は新島八重の養女となっている。
同年7月、待詔院出仕が決まるがまもなく死去。享年38。
>明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
>この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。
要するに、甘粕継成は自分勝手な犯罪者
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/hokuetu/main4.htm
 <北越戦争忠士墓>
奥羽越列藩同盟は武器弾薬の調達を新潟港に頼っており、この新潟港を会津・米沢藩が守備していた。
越後口は消極的な米沢藩の戦歴の中で数少ない戦地である。新潟港も新政府軍に奪われ撤退した。
この北越戦争での戦死者の墓である。
http://seuru.pupu.jp/sisekiyamagatayonezawa.html

>信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて督戦に訪れた際に
>この方面の庄内藩兵を率いる石原多門から次のように語られている。
>(甘糟備後継成遺文)
>甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
>「会津を助ける為に越後に出兵したきたのに
>肝心の会津藩兵は激戦地に庄内藩兵を送り
>自分達(会津藩兵)は安全な後方で
>民衆からの略奪に狂奔しているので
>庄内藩兵の士気が下がっている」と不満を述べられている。
督戦とは安全な後方で、将兵を煽り、逃げて来た味方の将兵を射殺するも含む。
石原多門と甘糟継成は安全な後方に居た事に成ります。
甘糟継成が戦後に捏造した話ですから。
荘内が北越に出兵させた部隊は、砲兵部隊です。
戊辰北越戦争で長岡と米澤は戦死者を多く出しましたが、
荘内は戦死者を殆ど出して居ません。
敵の歩兵陣地を大砲で攻撃して居ただけですから。
荘内は三根山の牧野家を大砲で恫喝して、歩兵小隊を出兵させて、付属部隊としました。
米澤は元込め式ライフル銃を購入済みなのに何故、北越に出兵させた大部隊は火縄銃しか持って居なかったのか?
上杉謙信の子孫の火縄銃組を演出して、北越の民を支配する為だったのです。

6月3日、米沢藩主上杉斉憲が自ら1000人余の兵を率い米沢を出発、6日に越後下関(関川村)に到着。
これに先立ち5日、斉憲の使者として、軍監大滝新蔵が新発田へ急行。直正公に下関に来てもらい軍議を開きたいと申し入れてきた。
1000人余の米沢兵のいるところへ出て来いということは、人質となれということである。
6月7日、直正公、溝口内匠、少数の藩士が城を出た。しばらく進むと、竹槍を持った領民たちが道を塞いでいた。
城下の町民や、五十公野、浜通、新発田、岡方などから集まった農民だった。
領内島潟村大庄屋小川五兵衛ら村役人たちが群衆を指揮している。さらに群衆の中には、変装した新発田藩士も混じっていた。
直正公の籠は清水谷の別邸に入り、9日まで滞在し、帰城した。
「領民、その邸を囲みて警護せり(是れを領民蜂起の第三とす。けだし三回の蜂起、皆重臣の密計ならん。然れども、今その由る所を詳かにする能わず)」『新発田藩戊辰始末』
新発田藩は、諸藩への申し開きのために領民を扇動した首謀者を捕えて見せねばならなかった。
首謀者として、折笠泰助、阿部求之丞を縄にかけ、下関へ護送していった。米沢の取調べは峻烈だった。
しかし、2人は新発田へ送り返されてくる。真犯人が小物ではないことを見抜いていたからか。藩では彼らを投獄したが、西軍が上陸すると釈放している。
領民蜂起の裏には多くの藩士がいたようである。溝口伊織は5月頃、家臣田宮余一を酒癖を理由に追放した。田宮は姿を消したが、実は伊織の密命を受けていたという。
6月7日の領民蜂起のとき、あちこち飛び回って、なにか指揮している田宮の姿があった。溝口内匠の家臣小川作兵衛も田宮の同志で、二人は領民の間に地下運動を組織していたといわれる。
320 :諸橋 嘉久:2013/05/17(金) 10:57:53.33 ID:EkNA546t0
戊辰北越戦争が始まり、態度が怪しい新発田の領主を米澤・仙臺が人質として領外に連れだそうとした時に、
竹槍で武装して、筵旗を掲げた新発田の百姓どもが道を塞いで妨害した。
百姓どもの先祖は上杉謙信に逆らい憎悪した揚北衆
新発田の溝口家は元・揚北衆の地侍を召抱えた筈だ。
新発田と米澤は元々仲が悪かった。

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