我自身に尋ねたところ、
組頭の田中廉太郎と松長長三郎等は、
信頼できる大藩の新発田に新潟の統治権を託そうとしたそうです。
其れを知った米澤が新発田に圧力を掛けたので、
新発田は新潟の統治権を断念したそうです。
組頭の田中廉太郎と松長長三郎等は、
信頼できる大藩の新発田に新潟の統治権を託そうとしたそうです。
其れを知った米澤が新発田に圧力を掛けたので、
新発田は新潟の統治権を断念したそうです。
しばたはん【新発田藩】
江戸時代、越後(えちご)国蒲原(かんばら)郡新発田(現、新潟県新発田市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は道学堂。1598年(慶長(けいちょう)3)、上杉景勝(かげかつ)が会津に移されたあと、堀秀治(ひではる)が越後の国主として春日山城(かすがやまじょう)に入った。その際、秀治の与力(よりき)大名として溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)が加賀(かが)国大聖寺(だいしょうじ)から6万石で当地に入り立藩。以後溝口氏12代が明治維新まで続いた。石高は1610年の沢海(そうみ)藩1万石の分立で5万石となり、幕末1860年(万延(まんえん)1)の高直しで10万石となった。領域の大半を占める蒲原平野は低湿地帯だったが、代々干拓や治水に力を入れ、新田開発を進めた。とくに、1730年(享保(きょうほう)15)以後の福島潟干拓工事は有名。その結果、内高(実際の石高)は40万石ともいわれた。また藩主は代々学問を奨励し、城下町は繁栄した。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、初め奥羽越(おううえつ)列藩同盟に与したが、領民が新政府を支持したことから新政府側についた。1871年(明治4)の廃藩置県により、新発田県を経て新潟県に編入された。