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テーマ随筆をクリックする➡(1)世良修蔵と仙台藩のことをクリックする
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戊辰戦争直前の米沢藩の動向
朝敵となった旧幕府に味方をしようとした失態を挽回する為に、米沢藩首脳部は新進気鋭の奉行(米沢藩での家老の呼称)である千坂高雅(当時二十七歳)を京の新政府に派遣します。この千坂は「一藩皆兵、一家一兵、一兵一銃」をスローガンとする軍制改革を行うなど、旧態依然と化していた米沢藩兵の軍制を近代化(西洋化)を指導していた人物であり、その下には米沢藩の戊辰戦争に大きく関わることになる甘糟継成・雲井龍雄・宮島誠一郎などの俊英が集っていました。
しかし京から離れた米沢の情勢とは裏腹に、既に京では新政府の権力が確立しており、米沢藩の京藩邸勘定頭真野寛助が、二月十ニ日に奥羽鎮撫総督府に招かれ、「討会ノ際米沢口ハ弊藩一手ニテ足ル、他藩ノ援助ニ要ナキ」と陳言する情勢でした(上杉家御年譜17 P630)。このような新政府の勢いを目の当たりにした上洛した千坂は、新政府に抗する不利を悟り、新政府より大隊旗を下賜され、速やかに国許に戻り、奥羽鎮撫総督に協力するようにと指示を受け米沢に帰る事になります(*4)。
しかし京から離れた米沢の情勢とは裏腹に、既に京では新政府の権力が確立しており、米沢藩の京藩邸勘定頭真野寛助が、二月十ニ日に奥羽鎮撫総督府に招かれ、「討会ノ際米沢口ハ弊藩一手ニテ足ル、他藩ノ援助ニ要ナキ」と陳言する情勢でした(上杉家御年譜17 P630)。このような新政府の勢いを目の当たりにした上洛した千坂は、新政府に抗する不利を悟り、新政府より大隊旗を下賜され、速やかに国許に戻り、奥羽鎮撫総督に協力するようにと指示を受け米沢に帰る事になります(*4)。
仙臺と米澤は新政府より大隊旗を下賜されながら、
世良修蔵の書簡を許可なく盗み読みして、
世良修蔵を拘束して、斬首した。
>しかし白河城を占拠した仙台兵はそのまま白石会議を、対明治新政府の攻守同盟にすり替え、他の奥羽諸藩に有無を言わさずに、その攻守同盟に引きずり込んだのです。
新政府を裏切って、世良修蔵を斬首して、奥羽列藩同盟を結成した仙臺と米澤
>内高(実際の石高)は40万石ともいわれた。
内高(実際の石高)は米澤の2倍の新發田
>その後、十一代藩主・溝口直溥の代になって、10万石への高直しを幕府に申請して、これは認められたが、これには藩内でも、家格が上がると言うメリットと、財政窮迫の折りの今更の高直しはかえって過剰な加役を加えられるのではというデメリットを巡って論争が起こった。
>大政奉還後、朝廷は列侯会議を開くため、10万石以上の諸大名に上洛を命じた。これに応じた藩は多くなかったが、新発田藩は幼君直正公の名代として江戸詰家老窪田平兵衛を派遣する。
>鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜追討令が出、久我中納言から新発田藩には京都の警護のために兵を出すようお達しがくる。上京兵力は、江戸から物頭久米三左衛門隊二百名、新発田から物頭佐治藤右衛門隊二百名の計四百名。総隊長は江戸詰家老速水八弥。
ここからは、我の願望と妄想のIF 新發田
10万石への高直しを幕府に申請しない新發田
鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜追討令が出、久我中納言から新發田には京都の警護のために兵を出すようお達しが来ない。
鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜追討令が出、久我中納言から新發田には京都の警護のために兵を出すようお達しが来ない。
内高(実際の石高)は40万石の新發田は、南北戦争で使用された中古のエンフィールド銃を購入して、所謂『ゲベール銃』を捨て、
エンフィールド銃で武装した新發田兵
豪商に献金させ、百姓から年貢を多く徴収する。
四斤砲と弾薬を大量に購入する。
エンフィールド銃で武装した新發田兵
豪商に献金させ、百姓から年貢を多く徴収する。
四斤砲と弾薬を大量に購入する。
新發田領に侵入する仙臺軍と米澤軍を四斤砲とエンフィールド銃で撃破する新發田軍
天皇に即位しても居ない親王を担いで不当に戦を起こした薩長と朝廷
天皇が不在で不当に戦を起こした薩長を糾弾する真の尊王の新發田
天皇が不在で不当に戦を起こした薩長を糾弾する真の尊王の新發田
新發田は會津・荘内・長岡・桑名らと共に薩長を討つ!