>河井継之助が被弾は、大腿部を貫通していたとの事で、
>戸板に乗せられ、只見町(塩沢)に落ち延びたが傷は意外と深く
大腿部を貫通したのなら、傷は深いに決まってるだろうが(大和田爆笑)
>7月25日西軍の反撃が始まり、それを迎え撃ち戦うため、新町の長福寺に陣を敷き、みずら総督の陣羽織を着て前の通りに出たところ、待ち伏せをしていた長州藩2名程の鉄砲で腿をうたれた。
待ち伏せをしていたと成ると、新町は長福寺の他は、陣地が壊滅したと言う事に成ります。
史実では新町を猛攻したのは、薩摩ですので、薩摩軍が長福寺を包囲して、
河井 繼之助ら長岡軍は、長福寺から脱出は不可能です。
>お寺様の話では、昭和40年頃には、鉛玉が柱に食い込んでいましたが、
金属類回収令で御寺の鐘まで供出させられました。
昭和40年頃まで、鉛玉が柱に食い込んで居る筈が無いのです。
>残念なのは、お寺様に遺留となった弾丸がなくなったという事でありますが、形状は現在の「パチンコ玉」を想像すればよく似ている鉛製のものであったそうですが、
そりゃ、火縄銃の弾丸だ(大和田爆笑)
弾丸も潰れますがね。
河井 繼之助が新町の民家を放火したとして、憎む。
新町を猛攻して、民間人まで巻き添えにした薩摩を憎む。
長福寺や新町の人たちは、居る筈の無い長州兵が河井 繼之助の陣羽織を狙撃して、
腿に弾丸が命中した話を明治時代に創作した。
陣羽織を狙撃して、左膝下に弾丸が命中する筈が無いので、
腿に命中して、弾丸が貫通したと話を創作した。