市が25日、発表した。市と市民有志らがつくる実行委員会が、小千谷談判のあった5月2日に再現劇の上演を企画していることから、それに合わせて子孫を招くことにした。
河井家から継之助の養子・茂樹の四男の妻である河井恵美さん、土佐藩出身の岩村家からは精一郎の二男・円(まろし)の孫に当たる岩村俊二さんら4人が来訪する。
当日は、継之助が談判の決裂後に、昼食を取ったと伝えられる市内の料理店「東忠」で、双方の子孫が出席する昼食会を開く。その後、慈眼寺に移り、市民が演じる再現劇を一緒に鑑賞する予定だ。
上演は午後2時から。無料だが、入場券が必要。小千谷市の市民会館と新潟市中央区の新潟日報メディアシップで中継される。問い合わせは実行委事務局の市生涯学習課、0258(82)9111。
“和解”は当事者である河井 繼之助と 岩村精一郎の間で起こるもの。
子孫如きが“和解”など笑止千万
>東忠での食事説は、小千谷市史編さん時から言われるようになったものです。それ以前からの言い伝えはまったくありません。
>当時、東忠は小さな茶屋だったと考えられ、格式はありませんでした。料亭であった、または格式があったという史料は現在も発見されていません。
我自身(霊)に尋ねたところ、東忠は料亭であったが、格式が低くて、仕出し料理と仕出し弁当も営業して、黒字を出して居たそうです。
>慈眼寺にある陣屋絵図で描かれている陣屋脇の道筋のことを、東忠への道筋として紹介されることがあるかと思います。古絵図に描かれているから格式があると誤解を与えかねない説明ですが、あれは、善光寺街道で、十日町を経由し信州へと続く道筋です。街道沿いに出店したのが東忠であり、その位置的に考えるなら茶屋が妥当と思います。小千谷町の宿や料亭が並んだ川岸の地域とは異なります。湯殿川河口から小千谷河戸の川岸は、江戸時代に川端通りと呼ばれ、傅右衛門家や藤左衛門家などの有力者が屋敷を構えていました。
記録に拠ると、陣屋の隣は和菓子屋
陣屋の頭は毎日、和菓子を食べて茶を喫して居たのでしょう。
>一方、河井継之助が宿泊したのは、野七ではなく野瀧という郷宿だったとも言われます。郷宿とは、江戸時代に陣屋を訪れる時に利用した宿のことです。野瀧は、野沢瀧右衞門家と言い、宿の中でも別格の陣屋取次を務めた家でありました。当時、陣屋に赴くには、この郷宿の取り次ぎが必ず必要で、大名の代理を務める河井継之助が宿とするには相応しい格式でした。
徳川の世は終わり、郷宿のシステムも瓦解して居るでしょう。
>東忠での食事説は、小千谷市史編さん時から言われるようになったものです。それ以前からの言い伝えはまったくありません。市史の編さん事業は、開始が1962年で、市史の前身として『小千谷の歴史』が最初に刊行されたのが1964年です。そして『小千谷市史 下巻』は1967年です。かの有名な、司馬遼太郎の『峠』が連載されたのが1966年~1968年です。単行本として出版されたのは1968年です。『峠』が出版されてから言われるようになったという話もありますが、実は時期が被っているのです。
そうでしたか。
>新潟県のホームページで、長岡地域振興局が作成する【長岡】機関誌・ながおか文の林(平成19年夏号・第3号)ウェブ版「文化の震災復興」に掲載された東忠の記述には、『~司馬遼太郎の「峠」が毎日新聞で連載された時は、このことが書かれていたのですが、単行本として出版された際に、この部分がカットされており、残念に思っています。』という記述がある。
毎日新聞と新潮社が民事訴訟を起こしたら、勝訴するでしょう。
>ある方が、小千谷市史編さん事業について語ったことがあったと言います。その一つにこんな話題がありました。「小千谷市史編さん時に、偉い学者さんが何人か来られていたが、毎晩のように料亭で食事をして、編さん事業の予算を使っていた。」
>その後、その料亭は、河井継之助が食事をした料亭と呼ばれるようになった。当然、その当時の主人と女将さんはご存じのことであった。
>もう先代は亡くなられているので、知っている人も居ないかもしれません。先代の女将さんが、河井継之助が立ち寄ったと言い切らなければ…、という話しも聞いています。最後まで真実を言うことが出来なかったことは、仕方ありませんが、後世の人が正しい道に戻すことは、可能だと思います。
司馬遼太郎が『峠』を執筆する前に慈眼寺を執筆取材で訪れたが、東忠を訪れなかった。
>東忠での食事説は、小千谷市史編さん時から言われるようになったものです。それ以前からの言い伝えはまったくありません。
其れが全てですね。